小牧・長久手の戦い
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天正12年(1584年)3月13日、家康が清洲城に到着したその日、織田氏譜代の家臣で織田軍に与すると見られていた池田恒興が突如、羽柴軍に寝返り犬山城を占拠した。家康はこれに対抗するため、すぐさま翌々日の15日には小牧山城に駆けつけた[注 3]
羽黒の戦い羽黒城

3月15日、池田恒興と協同せんとする森長可兼山城を出て、16日羽黒(犬山市)に池田勢より突出したかたちで着陣した[12][注 4]。しかし、この動きはすぐに徳川軍に知られ、同日夜半、松平家忠酒井忠次ら5,000人の兵が羽黒へ向けてひそかに出陣する。翌3月17日早朝、酒井勢は森勢を奇襲。酒井勢の先鋒、奥平信昌勢1,000に対抗し、押し返していた森勢だったが、側面から入ってきた松平家忠の鉄砲隊の攻撃により後退し[14]、さらに酒井勢2,000が左側より背後に回ろうとするのを見て敗走した。森勢の死者300余人という[15]
小牧における対陣現在の小牧山小牧山城

敵襲の心配がなくなった家康は、3月18日に小牧山城を占拠し、周囲に土塁を築かせ羽柴軍に備えた。秀吉は、3月21日に兵30,000を率いて大坂城を出発、3月25日岐阜に進み、3月27日犬山に着陣する[16][注 5]

家康が小牧山城に入ってから秀吉の楽田到着までの間、徳川方が最前線に、宇田津砦蟹清水砦田楽砦北外山城など、羽柴方が最前線に、二重堀砦岩崎山砦久保山砦上末城など、両軍がの修築や土塁の構築を行った為、双方共に手が出せなくなり、挑発や小競り合いを除けば、戦況は膠着状態に陥った。
岩崎城の戦い
三河中入り作戦

両軍は小牧付近にて対陣状態におちいり、たがいに相手の出方をうかがっていた。4月4日、池田恒興秀吉のもとを訪れて献策した。兵を三河に出して空虚を襲い各所に放火して脅威すれば徳川小牧を守ることができなくなるであろうと。5日朝、恒興は秀吉のもとを再度訪れ、森長可と共に羽黒戦の恥を雪ぎたいと述べた。秀吉はついにこれを許可し、森長可らを主として支隊を編成し、明6日三河西部へむけて前進すべしと命令(三河の中入り作戦)。支隊は上末城主落合氏など土豪地侍郷士の案内のもと、4月6日夜半出発した[18][19]。各隊の主な編組は以下の通り:

第一隊 - 池田恒興 - 兵5,000人

第二隊 - 森長可 - 兵3,000人

第三隊 - 堀秀政 - 兵3,000人

第四隊 - 羽柴秀次 - 兵9,000人[20][注 6]

羽柴秀次の出陣現在の岩崎城模擬天守

家康は4月7日に羽柴秀次勢が上条城大留城など篠木周辺(春日井市)に、2泊宿営した頃に近隣の農民や伊賀衆からの情報で秀次勢の動きを察知。4月8日、地元の丹羽氏次水野忠重榊原康政大須賀康高ら4,500人が支隊として小牧を夕方に出発して、20時小幡城名古屋市守山区)に入り、付近の敵情を探った。家康と信雄の主力9,300は20時小牧山を出発し、24時小幡城に着陣。織田・徳川軍は主力の到着にともない小幡城で軍議をおこない、兵力を二分して各個に敵を撃破することに決した。9日2時、織田徳川軍支隊は羽柴秀次勢を攻撃せんと出発した。

秀次勢は家康が小幡城に入った8日に行軍を再開し、9日未明には池田恒興勢が丹羽氏重(氏次の弟)が守備する岩崎城日進市)の攻城戦を開始する。氏重らは善戦したが、約三時間で落城し玉砕した(岩崎城の戦い)。この間、羽柴秀次、森長可、堀秀政の各部隊は、現在の尾張旭市長久手市日進市にまたがる地域で休息し、進軍を待った。


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