小渕恵三
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光平の死後、1960年(昭和35年)に第29回衆議院議員総選挙が行われた。当時23歳で、まだ被選挙権が無かったため、地元では元参議院議員群馬県知事長野県知事を歴任した伊能芳雄らを立てたが落選。結果的にこの時、伊能が議席を取れなかった事が小渕の政界進出を導いた。

1962年(昭和37年)、早稲田大学を卒業、早稲田大学大学院政治学研究科に進学、在学中の1963年(昭和38年)、海外視察旅行に出かけ、当時アメリカの施政権下にあった沖縄県を皮切りに計38ヶ国を歴訪[1]

早大大学院在学中の1963年11月、第30回衆議院議員総選挙旧群馬3区中選挙区制)から自民党公認で出馬し、47,350票を獲得し初当選(4議席中3位当選)。26歳という若さであった。同期には橋本龍太郎中川一郎大出俊田中六助伊東正義渡辺美智雄などがいる。群馬3区は福田赳夫中曽根康弘日本社会党書記長に登りつめた山口鶴男などの大物議員が林立し「上州戦争」とも呼ばれる激戦区で、小渕は自らを「ビルの谷間のラーメン屋」[注釈 1][2]両大国の谷間に咲くユリ」と喩えていたが、その後も議席を維持した(連続12回当選)。

1967年(昭和42年)、現在環境保護運動家として活動する大野千鶴子と結婚した。仲人は橋本登美三郎が務めた。

自民党内では佐藤派→田中派→竹下派→小渕派と一貫して保守本流を歩き、渡部恒三小沢一郎橋本龍太郎らと共にいわゆる「竹下派七奉行」に列せられた。また、竹下登に一貫して師事し、竹下直系として力を握った。

1970年(昭和45年)1月20日に郵政政務次官第3次佐藤内閣)に就任した。就任時、「郵政省で政務次官をやるからには現場の職務を深く理解したい」と考え、郵政外務職員に混じって自ら郵便配達を行い、当時の郵政省職員、郵便局局員を驚かせ、かつ支持を得ていった。こうしたパフォーマンスは、2021年現在では珍しくないが、当時としては異例で大いに話題を呼んだ[注釈 2]

1972年(昭和47年)、自民党総裁選田中角栄福田赳夫が対決した『角福戦争』の際、同郷の福田ではなく、同じ派閥の田中に投票した。そのため、福田首相を熱望していた群馬県民の怒りを買い、その年の暮れに行われた、第33回衆議院議員総選挙で苦戦を強いられたが、全国最低得票で辛くも当選した。

1972年7月12日に、建設政務次官(第1次田中内閣)に就任し、1973年(昭和48年)11月25日には総理府総務副長官(第2次田中改造内閣)に就任した。このように、小渕は3回も政務次官に就任しているが、政務次官就任は当時の自民党の常識では通常2回が限度とされており、非常に異例であるといえる。

1979年(昭和54年)11月9日、総理府総務長官兼沖縄開発庁長官(第2次大平内閣)として初入閣。同期の中で国務大臣になったのは、最も遅かった。

この間、木曜クラブ常任委員会議長として、竹下登自由民主党総裁の実現に奔走。1987年(昭和62年)11月6日に発足した竹下内閣内閣官房長官に就任し、内閣総理大臣臨時代理を務めた。官房副長官を務めた小沢一郎とのコンビは、竹下によって「小・小コンビ」(スモールコンビ)と呼ばれた。また小渕は「竹下内閣には三人の官房長官がいる。一人目は本物の私。二人目は官房長官経験がある竹下登総理、三人目は官房副長官小沢一郎」という言葉を残している。

自由民主党群馬県支部連合会(群馬県連)では、1986年7月から会長を務めた[3]
「平成おじさん」から首相へ1989年1月7日総理大臣官邸にて新元号を発表

官房長官時代の1989年1月7日昭和天皇崩御に伴い明仁親王が践祚(皇位継承)。改元にあたり、「元号法」に基づいて「元号を改める政令(昭和64年政令第1号)」が公布された後、総理大臣官邸(現:総理大臣公邸)での記者会見で「新しい元号は『平成』であります」と新元号を公表した。


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