福田赳夫の秘書を経て、1972年(昭和47年)の第33回衆議院議員総選挙で初当選し、以来12期連続当選。自由民主党では清和会(福田派、安倍派、三塚派、森派)に所属した。また、山崎拓や加藤紘一と「YKK」を結成し、経世会支配からの脱却や党の世代交代を訴え「グループ・新世紀」を旗揚げした。
竹下政権にて厚生大臣として初入閣、宇野政権、橋本政権でも厚生大臣を務め、宮澤政権では郵政大臣を務めた。森喜朗の後任として自由民主党総裁に選出され、2001年(平成13年)4月に内閣総理大臣に就任した。内閣総理大臣の在任期間は1980日で、第二次世界大戦後の内閣総理大臣としては安倍晋三、佐藤栄作、吉田茂に次ぐ第4位。平成においては安倍晋三に次ぐ第2位の長期政権である。2009年(平成21年)の第45回衆議院議員総選挙には立候補せず、二男の進次郎を後継に指名し政界を引退した。引退後は奥田碩、田中直毅らとシンクタンク「国際公共政策研究センター」を設立し、その顧問を務めた。公益財団法人日本尊厳死協会の顧問を務めている。
経歴
生い立ち小泉家。左から純一郎、又次郎(祖父)、正也(弟)、純也(父)。
1942年(昭和17年)1月8日、神奈川県横須賀市に、父小泉純也と母芳江の長男として生まれる。母方の祖父小泉又次郎は第2次若槻内閣で逓信大臣を務め、若いころに全身に入れ墨を彫っていたことから、“いれずみ大臣”“いれずみの又さん”などの異名で知られる大衆政治家だった[注釈 1]。
戦後、又次郎と純也は相次いで公職追放にあったため、小泉家の経済状態は決して恵まれていたわけではない。井料克己
によれば「日本全体が食べるのに必死だったけど、小泉家もまだ貧(まず)しくて夕食の食卓には芋の煮っころがしなんかが並んでいた。僕がたまに川や海に行って魚やうなぎを釣ってくると純一郎たちが喜んでくれた。」という[1]。神奈川県立横須賀高等学校卒業後、東京大学入学を目指し2浪。その後、慶應義塾大学経済学部に入学し、同大学を卒業[注釈 2]。英国ロンドン大学群ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン (U.C.L.) に留学の後、1969年(昭和44年)8月に父が急死し帰国。