小沢栄太郎
[Wikipedia|▼Menu]
溝口健二監督の『雨月物語』・成瀬巳喜男監督の『女が階段を上る時』などといった巨匠監督の名作から、東映時代劇東宝特撮映画独立プロ映画に至るまで幅広い作品に出演した。

さまざまな役をこなしたが、特に悪役での憎々しい演技に定評があった。『白い巨塔』『華麗なる一族』『不毛地帯』ではいずれも仇役を好演し[7]、『白い巨塔』での鵜飼教授役は劇場版のほか、テレビ版でも演じ、当たり役とした。『新・平家物語』で信西を演じた際には、視聴者から助命嘆願ならぬ殺害嘆願が多数届き、『元禄太平記』『赤穂浪士』『忠臣蔵異聞 生きていた吉良上野介』の3作では吉良上野介を演じ、その憎々しい演技でハマリ役と言われた。

1959年(昭和34年)、『十二夜』からは舞台演出も始め、『セチュアンの善人』『東海道四谷怪談』等の演出作がある。1969年(昭和44年)、俳優座を退団する[1]

1987年11月、「あまつ空なる」の公演中にスタッフに「肺癌だが頑張るよ」と語っていたが、1988年1月に体調を崩し1カ月間入院。その後、神奈川県逗子市小坪の自宅で静養。静養中、市川猿之助とともに「イタリア喜劇をやりたい」と語っていたが、同年4月23日午前11時40分、肺癌のため自宅で死去。79歳没。葬儀は俳優座劇場で行われ、千田是也が葬儀委員長を務めた[8]

私生活では艶福家として有名であり、2度の結婚を経験している。最初の妻との間に演出家の小沢僥謳を授かるも、堀阿佐子や山岡久乃と浮名を流し[5]、初妻は栄太郎・山岡が関係を清算した矢先とされた1954年に自殺。1974年(昭和49年)には37歳も年下の女性と再婚し[5]、老いらくの恋と騒がれたが、この妻とは終生連れ添った。
受賞・受章歴

1946年:第1回
毎日映画コンクール 演技賞『大曾根家の朝

1959年:週刊読売新劇賞 演出賞『十二夜』

1984年:第19回紀伊國屋演劇賞 個人賞『遁走譜』

1988年:勲四等旭日小綬章[5]

出演作品

※「 - 」は役名
映画大曾根家の朝』(1946年)

三色旗ビルディング(1935年、P.C.L.) - 保険屋谷本

都会の怪異七時三分(1935年、P.C.L.) - 巡査

桃中軒雲右衛門(1936年、P.C.L.)

忠臣蔵(1939年、東宝映画) - 戸田采女正

空想部落(1939年、南旺映画) - 黒住長慶

多甚古村(1940年、東宝映画) - デレ助

母子草(1942年、松竹

花咲く港(1943年、松竹) - 野長瀬修三

海軍(1943年、松竹) - 隆夫の父

水兵さん(1944年、松竹) - 鈴木兵曹(横須賀海兵団の教班長)

君こそ次の荒鷲だ(1944年、松竹) - 熱血訓導西沢

煉瓦女工(1946年、南旺映画) - 林造

大曾根家の朝(1946年、松竹) - 大曾根一誠

結婚(1947年、松竹) - 島本

長屋紳士録(1947年、松竹) - 父親

女優須磨子の恋(1947年、松竹) - 中村吉蔵

懐しのブルース(1948年、松竹) - 立松通房

(1948年、松竹) - 町田正

肖像(1948年、松竹) - 金子

破戒(1948年、松竹) - 高柳利三郎

わが恋は燃えぬ(1949年、松竹) - 早瀬龍三

深夜の告白(1949年、新東宝) - 早川(航空機会社の社長)

破れ太鼓(1949年、松竹) - 木村経理部長

暁の脱走(1950年、新東宝) - 副官

脱獄(1950年、東宝) - 孝之助

醜聞(1950年、松竹) - 堀

レ・ミゼラブル ああ無情(1950年、東横映画) - 安藤

風にそよぐ葦(1951年、東横映画) - 岡部編集長

愛と憎しみの彼方へ(1951年、東宝) - 鎌田与助

自由学校(1951年、松竹) - 加治木

ブンガワンソロ(1951年、新東宝) - スヘイマン

源氏物語(1951年、大映) - 御門

命美わし(1951年、松竹) - 快雲

母ものシリーズ(大映)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:87 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef