その「芸能研究の実践活動」として、1975年(昭和50年)、小沢が主宰し加藤武、山口崇、山谷初男らと劇団「芸能座」を旗揚げする(旗揚げは永六輔作『清水次郎長伝・伝』で全国を巡業する)。1980年(昭和55年)までその活動は続いた。付属として「あたらしい芸能研究室」(出版部門)を作り、研究誌「季刊藝能東西」を創刊。「藝能東西」以外にも、芸能関係の書籍を多数刊行し、2001年(平成13年)まで出版社として活動した[注 1]。また小沢自身も、時代と共に消え行く伝統芸能やストリップなどの猥雑な諸芸能を取材・研究した本を刊行し続ける。
1973年1月8日には、TBSラジオのトーク番組『小沢昭一の小沢昭一的こころ』が放送開始。約39年間に渡ってのエンディングのトークの締め括りで、「◯◯について考える。また明日のこころだァーッ。」、または「来週のこころまでェーッ。」という、お馴染み最後の雄叫びは、1973年スタートの第1週テーマ回から変わることなく、小沢本人でのトレードマークでもあった。
1982年(昭和57年)には「俳優が小沢一人」の劇団「しゃぼん玉座」を創設し、晩年まで活動を行った。「引退興行」と称して『唐来参和』(井上ひさし原作)の一人芝居を各地で、1982年(昭和57年)から18年間続け、公演660回を数えた。
他に野坂昭如、永六輔と「中年御三家」を結成し、1974年(昭和49年)の武道館でのコンサートはビートルズ以来と言われるほど盛況であった(2003年(平成15年)に「帰ってきた中年御三家」コンサートをNHKホールで行ったが、野坂は病気のため不参加)。また晩年期(いわゆる「二代目小沢昭一」の時代)には「老謡」と称し、幼・少・青年期に親しんだ歌を多数歌うようになる。
俳人でもあり「小沢変哲」という俳号を持っている。1969年(昭和44年)に入船亭扇橋を宗匠にして、永六輔、江國滋酔郎らと共に「やなぎ句会」を発足。句集など俳句関連の出版物もある[5]。
父が修業した新潟の写真館の建物が収蔵されていることから、博物館明治村の村長も務め、また日本新劇俳優協会会長を務めた。
1992年、第46回毎日出版文化賞特別賞を受賞。(ビデオブック『大系日本歴史と芸能 全14巻』網野善彦+小沢昭一+服部幸雄+宮田登+大隅和雄+山路興造=編集委員、平凡社+日本ビクター)による。
1994年(平成6年)に紫綬褒章、1999年(平成11年)に坪内逍遥大賞、2001年(平成13年)に勲四等旭日小綬章及び徳川夢声市民賞、2003年(平成15年)に東京都功労者。2004年(平成16年)に早稲田大学芸術功労者。2005年(平成17年)に朝日賞[6]。2005年第18回大衆文学研究賞研究・考証部門を受賞(「日本の放浪芸」白水社)。2008年(平成20年)したまちコメディ映画祭in台東において、『第1回コメディ栄誉賞』を受賞。
2005年(平成17年)、新宿末廣亭6月下席夜の部にて、主任の柳家小三治の依頼により、子どもの時分から憧れだった寄席の舞台に芸人(演目は「随談」)として出演した。そのときの様子は書籍[7]になっている。
1998年(平成10年)に前立腺癌が見つかったが長らく伏せており、仕事の間を縫って定期的に治療を行っていたことを2011年(平成23年)2月10日発売の「文藝春秋」に寄せた随筆で初めて公にしている[8]。2010年にがんは頸椎へ転移[9]。2012年(平成24年)夏頃から体調を崩し、同年9月13日に入院。これに伴い、9月24日以降の『小沢昭一の小沢昭一的こころ』は、12月28日放送分まで過去の放送回の中より傑作選を放送していた(それ以降、急逝まで小沢本人が番組に復帰することは一切なかった)。10月22日に退院した後も自宅で療養を続けていた。『小沢昭一の小沢昭一的こころ』11月16日放送回では、自宅で録音したというラストメッセージを寄せ、復帰に意欲を見せていたが、これが生涯最後の仕事となっていた。
2012年(平成24年)12月10日、前立腺癌のため、東京都内の自宅で急逝した。これにより、小沢本人におけるラジオ番組自体は、39年の歴史にピリオドが打たれた[10][11]。83歳没。12月14日に千日谷会堂で行われた本葬では生島ヒロシ、永六輔、乙武洋匡[12]、加藤武、桂米團治、神津善行、黒柳徹子、篠田正浩、春風亭小朝、露木茂、長峰由紀、中村メイコ、野坂昭如、林家正蔵、林家三平、吉行和子ら850人が参列した。戒名は洽昭院澹然一哲居士。世の中に豊富な見識をユーモアと優しさを持って伝えた活眼の士という意味が込められている[13]。なお、式場となった千日谷会堂は生前、死を覚悟した小沢がたまたま車で通りかかった際に「ここだな…」とつぶやき、心に決めた場所だったという[14]。
「九条の会」傘下の「マスコミ九条の会」呼びかけ人[15]、「世田谷・九条の会」呼びかけ人を務めていた。
出演映画
太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品
勲章(1954年、俳優座)- 金子
市川馬五郎一座顛末記・浮草日記(1955年、山本プロ)
愛のお荷物(1955年、日活)- 鳥居秘書官
洲崎パラダイス赤信号(1956年、日活)- 三吉
街燈(1957年、日活)
幕末太陽傳(1957年、日活)- 貸本屋金造
誘惑(1957年、日活)
陽のあたる坂道(1958年、日活)- 上島健伍
東京のバスガール(1958年、日活)- 桃山
紅の翼(1958年、日活)- 安藤幸宏
貸間あり[16](1959年、東宝宝塚)
にあんちゃん(1959年、日活)- 金山春夫
武器なき斗い(1960年、大東映画)- 清
「十三号待避線」より その護送車を狙え(1960年、日活)- 香島五郎
大出世物語(1961年、日活)- 六さん
豚と軍艦(1961年、日活)- 軍治
大当り百発百中(1961年、日活)- 及川太郎
あいつと私(1961年、日活)- 金沢正太
猫が変じて虎になる(1962年、日活)- 葛井久六
喜劇 にっぽんのお婆あちゃん(1962年、松竹)- 副園長小野
雁の寺(1962年、大映)- 鷹見邦遠
キューポラのある街(1962年、日活)- 鑑別所の教師
しとやかな獣(1962年、大映)- ピノサク
非行少女(1963年、日活)- 小使
台所太平記(1963年、東宝)- 園田光雄
若い東京の屋根の下(1963年、日活)- 北村利夫
エデンの海(1963年、日活)- 高岡
煙の王様(1963年、日活)- スクラップ工事長
競輪上人行状記(1963年、日活)- 伴春道
くノ一忍法(1964年、東映)- 薄墨友康
くノ一化粧(1964年、東映)- 真昼狂念
越後つついし親不知(1964年、東映)- 瀬神留吉
続・拝啓天皇陛下様(1964年、松竹)- 王万林
赤い殺意(1964年、日活)- 田丸和幸
仇討(1964年、東映)- 小山左門