衆議院議員であった父の佐重喜の突然の逝去により、弁護士となるために通っていた日本大学大学院法学研究科を中退し、政治家となった[3][4]。以降、自治大臣兼国家公安委員会委員長、内閣官房副長官(政務担当)、自由民主党幹事長、新生党代表幹事、新進党幹事長、新進党党首、自由党党首、民主党代表代行、民主党代表、民主党幹事長、国民の生活が第一代表、生活の党代表、自由党共同代表を歴任した。.mw-parser-output .toclimit-2 .toclevel-1 ul,.mw-parser-output .toclimit-3 .toclevel-2 ul,.mw-parser-output .toclimit-4 .toclevel-3 ul,.mw-parser-output .toclimit-5 .toclevel-4 ul,.mw-parser-output .toclimit-6 .toclevel-5 ul,.mw-parser-output .toclimit-7 .toclevel-6 ul{display:none} 岩手県出身の弁護士・政治家である小沢佐重喜の長男として東京府東京市下谷区(現在の東京都台東区)御徒町に生まれた。 父・佐重喜は当時、東京府会議員をしていた[5]。母・みちは元千葉県議会議員荒木儀助の四女である[注 2]。父は44歳、母は42歳と、(当時としては)両親が高齢になってから生まれたため、まるで“孫みたいな”子供だったという[5]。本籍地は岩手県奥州市(当時水沢町)。 3歳になる頃、東京大空襲を逃れるため、小沢家は佐重喜の生まれ故郷の水沢に疎開した[6]。 水沢町立水沢小学校を経て、水沢市立常盤中学校の2年生を修了後、東京の文京区立第六中学校に転校する。 東京都立小石川高校卒業後、東京大学入学を目指し2浪。その後、慶應義塾大学経済学部経済学科に入学する。大学時代のニックネームは、“おとうちゃん”。身体が大きく寡黙でどことなく落ち着いた風貌を漂わせていたことからこのニックネームがつけられたという[7]。在学中は気賀健三のゼミに所属。入学当初から経済学よりは法律の勉強に熱心で、法律関係の授業を熱心に聴講していたという[8]。 1967年(昭和42年)春に、大学を卒業する。弁護士を目指すために日本大学大学院法学研究科で法律を学ぶ[9][注 3]。日大大学院では、家族法を専門とする高梨公之(日大名誉総長)から司法試験(弁護士教育)と論文指導を受けた。 父の死 1968年(昭和43年)5月8日、父・佐重喜が心不全で急逝[10]、これをきっかけに弁護士になることを断念した[11]。 この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
来歴
生い立ち
学生時代
自由民主党時代
若手、中堅議員時代
出典検索?: "小沢一郎"
田中角栄(左)と
1969年(昭和44年)、父・佐重喜の急死に伴い、第32回衆議院選挙に旧岩手2区から自由民主党公認で立候補し、27歳の若さで当選した。この総選挙を党幹事長として指揮したのが田中角栄で、佐藤栄作→田中角栄派(周山会→七日会・木曜クラブ)に所属し、田中の薫陶を受けた[12]。なお小沢は、田中角栄内閣において1期生ながらも「田中の秘蔵っ子」として力を振るった[13]。この頃派内の若手議員の世話をしていたのが、当時中堅議員だった金丸信であり、後々まで続く師弟関係の始まりとなった[12]。当時は大学紛争が激しく、田中の肝煎りの大学運営臨時措置法案が政局の焦点となったような世情であり、また紛争時代の大学院に在籍した代議士は当時希少であったこともあり、当初の小沢は文教族を目指していた。なお、初当選間もない頃に甲状腺癌を患い、一時は声が出なくなり政界引退も考えたというが、手術で完治している。
衆院議員2期目だった1973年に田中角栄の後援をしていた新潟県の建設会社福田組会長・福田正の長女である和子と結婚した[14]。
1982年(昭和57年)に自民党総務局長(現在でいう選挙対策委員長)に就任する[15]。1983年(昭和58年)の第13回参議院選挙で(初の厳正拘束名簿式)比例区での順位付けを担当した際、「現職優先」を主張した中曽根らに対し、党員党友の集め具合や後援会の規模などのデータを駆使し、20位以内に新人を9人送り込む筋論を押し通し、議席を増やした。その後に行われた旧京都2区の2人欠員による衆院補選に際し、執行部内では共産党が強い選挙地盤である京都での2人擁立を避けて1人擁立に留める意見が大勢を占めていたが、小沢は2人擁立論を主張、谷垣禎一と野中広務の新人2人を擁立し、絶妙な票割り(谷垣12万5209票、野中12万1890票、差は3319票)で2人とも当選させた[15](なお、この補選で次点で落選した有田光雄は有田芳生の実父)。首相の中曽根に「まるで名医の手術を見ているようだ」と絶賛された[16]。
1983年12月、衆議院議院運営委員長を務める[17]。当時は衆議院議員運営委員長を退任した後には入閣することが慣例化していた。しかし就任から1年後の第2次中曽根再改造内閣では入閣すると思われていたが、できなかった[15]。