小池百合子
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視察団に参加した勇二郎はエジプトのカイロで感激し「自分はここに残って商売がしたい」と言い出した。結局、周囲に説得させられて帰国するが、小池百合子とエジプトの縁はここに端を発した[12]
学生時代

芦屋市立岩園小学校甲南女子中学校を経て、1968年に甲南女子高校に進学。在学中は、テニス部、ソフトボール部、ESS部に所属した。

高校2年の1969年12月、父親の勇二郎は第32回衆議院議員総選挙に、石原慎太郎による将来的な新党結成を見据えた「日本の新しい世代の会」の推薦を受けて旧兵庫2区から無所属で立候補したが落選[13]。業者間転売品の仕事が立ち行かなくなった父親は、1970年にムハンマド・アブドゥル・カーデル・ハーテムが来日すると、日本アラブ協会が主催した歓迎パーティーに出席しハーテムに自分を売り込んだ。帰国したハーテムを追いかけ、同協会に所属する国会議員の紹介状を手にエジプトに飛んだ。さらにハーテムの知遇を得た勇二郎は帰国後の同年10月14日、大阪倶楽部で講演を行う。「中東から日本に入ってくる石油はすべてユダヤ人が経営する企業を経由している。今回の中東訪問で自分は人脈を築いたので、ユダヤ企業を通さず石油を仕入れられるが、足りないのは自前のタンカーである」と述べて投資を募り、商売を続けた[14]

1971年3月、甲南女子高校卒業。同年4月、関西学院大学社会学部に入学[15]朝堂院大覚によれば、その後ほどなくして父親の会社が倒産し、一家は東京都の六本木に引っ越して朝堂院の事務所で働いたという[13]
エジプト留学

1971年9月、大学を中退して父親の貿易先でもあったエジプトへ留学した[15]。「国際連合公用語アラビア語が加わる[注釈 2]」旨を伝える新聞記事を読んだのがきっかけだった。小池はアラビア語通訳を目指し、カイロ市のカイロ・アメリカン大学(英語版)東洋学科に入学[16][17]。ここでアラビア語を学んだ[18]。エジプト滞在中にカイロ近郊にあるギザの大ピラミッドを登り、その天辺で茶道の形式に則りお茶を点てたことがある[19][注釈 3]。両親は朝堂院(松浦良右)の資金援助でカイロ市日本食レストランを経営するが、その会社は小池の留学中に倒産した[20]

1972年9月、カイロ大学の入学手続きを行う。同年10月、同大学文学部社会学科に入学[21]。小池の著書によれば1年目に落第したとされる[22]。1974年、同大学の3歳年上の日本人留学生と結婚。夫はその後同大学で進級できず卒業をあきらめ、サウジアラビアに引っ越して就職。結婚から3年ほどで離婚した[23][24]

1976年、日本航空カイロ支店の現地スタッフとして働き始める[25][26][注釈 4]。同年10月に同大学文学部社会学科を卒業[1][2][28][29]。小池によるとカイロ大学は首席で卒業したという[30][31][32]。来日するエジプトのサダト大統領夫人のジハン・サダトをエスコートするために、同年10月11日、一時帰国[33]。11月にまたエジプトに戻り、12月に正式に帰国した。「#カイロ大学卒業について」を参照
通訳・ニュースキャスター時代

帰国後はアラビア語の通訳として活動[19]。父・勇二郎の友人で民族主義者の中谷武世が会長を務める日本アラブ協会の嘱託となり通訳兼アラビア語講師を担当する(1989年には同協会の事務局長に就任)[34][35]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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