その後も官務は小槻氏内で継承され、平安時代末政重
の子の師経・永業・隆職らは3名とも官務を務め、永業流は算博士を、隆職流は官務を相続することとされた。しかしながら、文治元年(1185年)官務・隆職が後白河院と源義経による源頼朝追討の宣旨に関わったとして頼朝に解官され、官務は永業の子の広房が継いだ。でありながら建久2年(1191年)に後白河院の指示で隆職が復職、広房は官務の地位を失う。その後隆職が危篤に陥ると広房は隆職の子・国宗と後継を争ったが敗れ、官務には国宗が就いた。国宗が死去した後次の官務に広房の孫の季継が就くと、季継は朝廷の権力者九条道家と深い関わりを持って21年間に渡って在職し、隆職流に押されがちであった広房流の地位を向上した。それ以後小槻氏は隆職流と広房流とに分かれ、算博士は広房流が相続するものの官務は両流が対等の立場から争い合うこととなる。南北朝時代においても、小槻氏は雑訴決断所に登用されるなどと官人家としての職務を担い、この頃には両流は邸宅の場所にちなみ、隆職流は壬生家、広房流は大宮家と称していた。この時期公家全体が経済的に苦境を迎え、小槻氏もまた例外でなく官務職と小槻氏伝来の雄琴荘・苗鹿荘の所有を巡って競争は一層激しくなった。両家はそれぞれ権力を持った公家や武家に取り入り、壬生家(晨照、晴富、雅久)・大宮家(長興、時元)の争いは訴訟の頻発するほどのものとなる。この間大宮長興は治部卿を務め、地下家でありながら小槻氏で初めて八省卿に任じられている。
応仁元年(1467年)から応仁の乱が始まると、争いに巻き込まれ大宮家の官文庫が焼失、大宮家は史の職に支障をきたして壬生家が優勢となる。そして大永7年(1527年)壬生于恒と大宮伊治の間で和睦状によって雄琴荘・苗鹿荘は壬生家の所有となり、領地を有していなかった大宮家は経済的に逼迫し、他の公家同様地方の大名を頼って下向せざるを得なくなる。伊治の頼った西国有力大名・大内氏の先では、伊治の娘・おさいが当主大内義隆の嫡男・義尊を産むなどと寵愛を受けていたが、天文21年(1551年)陶晴賢の義隆に対する挙兵(大寧寺の変)により伊治は大内義隆・義尊ともども討死した。伊治の子は早世したようで、新たに迎えた猶子も出仕しなかったらしく、元亀3年(1573年)壬生朝芳
に大宮家継承を命じる女房奉書が下されて大宮家は断絶することとなり、以後は壬生家が単独で官務を継承した。この時期に庶流として、大宮通音の子・通昭が虫鹿家として大宮家から分かれている。 中世に官務の壬生家と局務の押小路家(中原氏嫡流)は「両局」と称せられて地下官人を統括する体制を整えていたが、近世になるとこれに出納の平田家(中原氏庶流)が加わり、それぞれ「官方」・「外記方」・「出納方」という3家体制となる。そのきっかけは江戸開幕後朝廷儀式が再興され始め、それに伴い壬生家・押小路家の両局が地下官人を続々と登用し始めたことによる。これは両局が多くの職務を担当し、それに付属する所領によって経済的に余裕があったためである。朝廷を手中に収めたい幕府側にとってこの独自の活動は意向に反し、牽制のために平田家を両局と同じ地位にまで上げ抑制しようとした。これに壬生家は反発し争論となるが、当主壬生孝亮の失脚により認めざるを得ず、家格では平田家は両局から一歩引くという形で収束する。これら3家は近世地下官人の3階層(催官人・並官人・下官人)のうち催官人を組織し「三催」と呼ばれ、俗に「地下官人之棟梁」と称せられて明治維新まで朝廷に仕えた。 地下官人の登用の一環として、虫鹿亮昭
江戸時代
明治以降が終身華族に、次いで1876年永代華族となった。そして1884年には、子壬生謨vが男爵に叙せられた。なお、平田家やその他の史一族は士族とされた。
系譜
鎌倉以前
小槻氏系図(鎌倉以前)
実線は実子、点線(縦)は養子・猶子。官は官務就任者。
垂仁天皇
落別王/息速別命
[小槻山君]
(十数代略)
[阿保氏]
阿保今雄阿保有緒
阿保経覧[小槻氏]
小槻当平小槻糸平
茂助
忠臣
奉親官
貞行官
孝信官
祐俊官
盛仲官[注a 1]
政重官[注a 2]
師経官永業官[壬生家]
隆職官
[大宮家]
広房官
^ 三善国信の次男。
^ 三善国信の三男。
鎌倉以後(壬生家・大宮家分裂後)
壬生家・大宮家系図
実線は実子、点線(縦)は養子・猶子。数字は分裂後官務就任順。
永業[壬生家]
隆職1,3
[大宮家]
広房2国宗4
公尚通時
季継5淳方6有家
秀氏8有家7
益材顕衡9
伊綱11統良10
冬直13清澄千宣12
康景光夏匡遠14
通古為緒18量実15兼治16