小栗風葉
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田山花袋と親しく、花袋の示唆で西洋文学を読み、エミール・ゾラギ・ド・モーパッサンショーペンハウエルなどに影響を受け、数々の作品を発表、門下に岡本霊華、真山青果中村武羅夫がいるが、彼らによる代作が多く、のち名声を落す一因となった。また師紅葉が『金色夜叉』を未完のまま死ぬと、その続き『終編金色夜叉』を執筆した[1]

一躍風葉を有名作家としたのは、紅葉の没後、日露戦争後の世情の中で、ツルゲーネフ『ルージン』に想を得て1905年より読売新聞に連載した『青春』三部作である。これは広く読まれたが、次第に自然主義文学が勃興し、以後あまり振るわずに終わった。谷崎潤一郎がデビュー前、自身の将来に不安を抱いていると、「君だって小栗風葉くらいにはなれるよ」と言われたという。

その後、花袋の『蒲団』に刺激されて自然主義派に傾き、『恋ざめ』で中年の恋を描いたが、次第に代作、翻案が多くなり、国木田独歩の死をきっかけに、「戸塚党」と呼ばれた風葉門下の青果、武羅夫、沼波瓊音らと花袋が衝突、風葉も花袋と決裂するに至る。1909年に発表した『姉の妹』は発禁扱いとなった[1]

晩年は豊橋に隠棲し[1]、花田町中郷に新居を立て、留月壮と名付け、亡くなるまで同地で過ごした。1926年1月15日、心嚢炎に肺炎を併発して豊橋の自宅で死去。墓所は豊橋市羽根井西町共同墓地。戒名は友慶院釈風葉[2]

妹は哲学者・梅原猛の義母に当たる。

豊橋市三の丸会館に、記念碑が建てられている ⇒[1][リンク切れ]。豊橋市三の丸会館奥にある小栗風葉碑。小説『青春』中の豊川堤から見えた情景を描写した部分が引用されている。豊橋文化協会により1976年に建設された
主な作品

『寝白粉』(『
文藝倶楽部』2巻11編、1896年9月)

『亀甲鶴』(『新小説』1年7号、1896年12月)

『五反歩』(『新小説』5年9巻、1900年7月)

『下士官』(『新小説』5年10巻、1900年7月)

『恋慕ながし』 1900年5月、春陽堂

『黒装束』1901年、春陽堂

『凉炎』(『新小説』7年4巻、1902年4月)

『深川女房』(『新小説』10年3巻、1905年3月)

『卯の花縅』 1905年10月、青木嵩山堂

『麗子夫人』 1906年、隆文館

青春』 (『讀賣新聞』1905年3月 - 1906年11月)「春之巻」1905年10月、「夏之巻」1906年1月、「秋之巻」11月、春陽堂→「岩波文庫」1953年

『罪と罪』 1907年1月、青木嵩山堂

『ぐうたら女』(『中央公論』1908年4月)

恋ざめ』1908年4月、新潮社

『世間師』(『中央公論』1908年10月)

『金色夜叉終編』 1909年4月、新潮社 『金色夜叉』の続き

『無為』(『中央公論』1910年1月)

『荒尾譲介』 1912年6月、新潮社

『黙従』 1913年、隆文館

『落潮』 1919年、新潮社

参考文献

この節には参考文献外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注による参照が不十分であるため、情報源が依然不明確です。適切な位置に脚注を追加して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2022年8月)


岡保生『評伝小栗風葉』桜楓社、1975年。ISBN 4273003929

吉田精一『自然主義の研究』下 東京堂、1958年。

伊藤整『日本文壇史』6「明治思潮の転換期」/14「反自然主義の人たち」講談社文芸文庫、1995年/1997年。ISBN 4061963406ISBN 4061975544

『明治文学全集』第65巻、小杉天外・小栗風葉・後藤宙外集、筑摩書房、1968年。ISBN 4480103651

脚注^ a b c d “港区ゆかりの人物データベースサイト・人物詳細ページ (小栗風葉)”. www.lib.city.minato.tokyo.jp. 港区. 2022年8月20日閲覧。


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