小林秀雄_(批評家)
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^ 東京高等工業学校機械科卒業。東京高工助教授となり、文部省から派遣されて、欧米の貴金属界を視察、帰国後御木本貴金属工場の工場長となる。さらに欧米各国の装身具工場を見学。
^1928年昭和3年)2月、成城高校の国語教師村井康男の紹介で、東大在学中の小林秀雄からフランス語教授を受ける」大岡昇平「略年譜」『わが文学生活』中公文庫1981年(昭和56年) p.7という資料もある。富永も大岡も村井門下。
^ 「編集部員は箕輪錬一(立教出)、鈴木一意(早大出)、水島治男(早大出)、佐藤績(早大出)、上林曉(東大出)と私の六人で、鈴木を除けば、みな学校を出て間のない若手だった。私が一番新参であった。数百篇集った中から最後に二編残った。宮本顕治の『敗北の文学』と小林の『様々な〔ママ〕意匠』である。一等一篇金千円、二等一篇金五百円という規定だったが、どちらを一等にすべきか編集部は迷った。いろいろ議論したがケリがつかないので投票ということになった。結果は三対三。そこで又迷った。小林のは新風に違いないが難解であった。それに反し宮本のは左翼の立場から芥川龍之介を論じたもので、議論は単純明快、言葉に力がこもっていた。結局、左翼文学の勢をふるっていた当時の文壇形勢からしても、『敗北の文学』を一等に推すのが至当ということにきまった。」[2]
^ このあと『世界文學』1946年(昭和21年)10月号に近代文學同人による座談会「近代文學の反省」が掲載されている。
^ 後に、チェーホフイプセンなどの西洋劇を見る機会を得て、戯曲の舞台上にあって生きることについて感嘆し、西洋戯曲を論じた文章、対談時の発言を残している。小林秀雄「チェホフ」『批評』1948年11月号所収、『作家の顔』新潮文庫1961年(昭和36年) pp.240 - 248、小林秀雄「『ヘッダ・ガブラー』」『新潮』1950年(昭和25年)12月所収、『作家の顔』新潮文庫、1961年(昭和36年) pp.263 - 275、「悲劇について」『演劇』1951年(昭和26年)6月創刊号 pp.38 - 41、小林、加藤周一対談「演劇の理想像」『演劇』1951年7月号 pp.16 - 24、久保田万太郎、今日出海、永井龍男、小林座談会「オスロ土産話」『演劇』1951年8月号 pp.60 - 67、福田恆存、小林対談「芝居問答」『演劇』1951年11月号 pp.32 - 44
^ 但し、ランボーを象徴派詩人と見なすか否かについて、小林においては二十代の評価と、それ以後では変化する。
^ 「だが、もはや私には、彼に関するどんな分析も興ない。」「アルチュル・ランボオU」『地獄の季節』白水社1930年(昭和5年)所収。(現行タイトル「ランボオU」)小林秀雄『考えるヒント4 ランボオ・中原中也』文春文庫、1980年(昭和55年) p.27
^ 江藤淳による判断は、「四年前の夏には彼の内外に「現存」していたランボオが、この時はもう回復しようもなく失われているのである」となる。江藤淳「小林秀雄論(四)」『聲』第9号 丸善、1960年(昭和35年) p.59
^ 実存主義#歴史を参照。
^ 武者小路実篤主宰の雑誌。武藤康史「小林秀雄交遊緑」『小林秀雄百年のヒント』『新潮』2001年4月臨時増刊 p.299
^ 小林の年少の知人であった大岡昇平の言葉を借りる。「私は人生も大正文壇も厭悪していたが、芥川の死は、人生は果して生きるに値するものか、自殺すべきか、について考え直しを強いるものだった。(中略)そんな時、村井さんが貸してくれた『大調和』の「芥川龍之介の美神と宿命」は、これらの青春の悩みを解放してくれたものだった。芥川の文学を神経の文学として相対化してくれた。芥川は遺稿で、イエスを書き、ヴォルテール、ボードレールを引用して、思想の文学めかしていた。小林さんは「芥川]を「逆説というものが何であるかを知らなかった逆説家」とこき降ろして、ヴォルテールを知らない少年を安心させた」大岡昇平「教えられたこと」『新潮』4月臨時増刊号、1983年(昭和58年) p.89
^ 村井さんは、村井康男。当時旧制成城高等学校教師。東京帝国大学文学部国文学科卒。1929年(昭和4年)同人雑誌『白痴群』に参加。同人は、中原中也、富永次郎、大岡昇平、河上徹太郎、阿部六郎、内海誓一郎、古谷綱武安原喜弘、村井。『天上大風』村井康男遺文集 村井福子、1984年(昭和59年) pp.202 - 203
^ 小林は、『飾画』の前半21篇を『作品』1930年5月創刊号から同年10月号までに訳載。
^ ランボーのいわゆる「見者の書簡」には進行中のパリ・コミューンへの強い共感を寄せ、将来、労働者として生きる決意を述べた箇所がある。但し、詩作中のランボーはコミューンの戦いには自ら参加するつもりはないと書いている。パリ・コミューンにはマルクスも関与していた。
^ 1931年(昭和6年)ボードレールの『悪の華』5篇を3回にわたり『作品』1931年7月号から9月号に翻訳分載。なお、ランボオ『酩酊船』を同年11月に白水社より刊行。堀内達夫「小林秀雄年譜」『文芸読本 小林秀雄』河出書房新社1983年(昭和58年) p.263
^ 初期の小林の評論には「批評とは対象をダシにして自らを語ること」という言及が見えるが、「マルクスの悟達」後で小林は手のひらを返すように「批評とは何としても自らを棚上げすること」と書いている。
^ 「Xへの手紙」が書かれた段階では、既に卒業したこととして「書物に傍点を附して世の中を理解しようとするような小癪(こしゃく)な真似」というような自己告白がある。周辺人物による戦後の小林への回想では、ベルクソンの著作を傍線だらけにして、愛着を以て接する小林の姿がある。
^ 1933年(昭和8年)『文藝春秋』1月号に「『永遠の良人』」を掲載。
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