小林秀雄_(批評家)
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父豊造は[注釈 4]ベルギーアントワープ市でダイヤモンド加工研磨の技術を学び、日本にその技術機械とを持ち帰り、「洋風装身具製作」の先駆者となった[1]。また日本で最初に蓄音機用のルビー針を作るなど、数々の技術を開発している。1915年大正4年)3月、白金尋常小学校を卒業。同年4月、東京府立第一中学校入学。同期に迫水久常西竹一ら、一期上には富永太郎蔵原惟人河上徹太郎(神戸一中から編入)らが在学していた。1920年(大正9年)3月、府立一中卒業。第一高等学校受験、不合格。1921年(大正10年)3月、父豊造。同年4月、第一高等学校文科丙類入学。

1925年(大正14年)4月、東京帝国大学文学部仏蘭西文学科入学。同級生に今日出海中島健蔵三好達治らがいた。同月富永太郎を通じて中原中也を識る。同年11月、長谷川泰子同棲1928年昭和3年)2月、富永の弟次郎を通じて大岡昇平を識る[注釈 5]。同年3月、東京帝国大学卒業。同年5月、単身家を出て大阪に行く。後に奈良に住み、志賀直哉家に出入する。長谷川泰子との同棲関係は解消。1929年(昭和4年)9月、『様々なる意匠』が『改造』懸賞評論第二等入選作として発表された。なお一等は宮本顕治『「敗北」の文学』であった[注釈 6]1930年(昭和5年)4月、『アシルと亀の子』を『文藝春秋』に発表、以後翌年3月まで文芸時評を連載、批評家としての地位を確立した。1932年(昭和7年)4月、明治大学に文芸科が創設され、講師に就任し、日本文化史、ドストエフスキー作品論などを講じた。

1933年(昭和8年)10月、文化公論社より宇野浩二武田麟太郎林房雄川端康成らと『文學界』を創刊。1935年(昭和10年)1月、『文學界』の編輯責任者となり、『ドストエフスキイの生活』を連載し始める。

1938年(昭和13年)3月、「文藝春秋」特派員として中国大陸に渡り、上海を経て27日、杭州で火野葦平に第六回芥川賞を渡す。小林秀雄は6月に明治大学文芸科教授に昇格した[3]

1940年(昭和15年)4月、『文學界』の編輯委員を辞任する。

1946年(昭和21年)2月、 「近代文学」で座談会「コメディ・リテレール-小林秀雄を囲んで」[注釈 7]。同月『無常といふ事』を創元社より刊行。同年5月、母精子没。同年8月、明治大学教授辞任。同年12月、青山二郎・石原龍一と『創元』を編集、「第一輯 梅原龍三郎特集」で『モオツアルト』を、「第二輯 幸田露伴特集」で『「罪と罰」について』を発表。1948年(昭和23年)4月 - 創元社取締役就任。1951年(昭和26年)3月、第一次『小林秀雄全集』により日本芸術院賞受賞[4]1953年(昭和28年)1月、『ゴッホの手紙』により読売文学賞受賞。1958年(昭和33年)12月、『近代絵画』により野間文芸賞受賞。1959年(昭和34年)12月、日本芸術院会員となる。1961年(昭和36年)10月、創元社取締役辞任。1963年(昭和38年)11月、文化功労者に顕彰。1965年(昭和40年)6月、『本居宣長』を「新潮」に連載開始(1976年(昭和51年)まで)。1967年(昭和42年)11月、文化勲章を受章。1978年(昭和53年)6月、『本居宣長』により日本文学大賞受賞。

1982年(昭和57年)3月、尿道痛と血尿のため川崎市立川崎病院に入院。膀胱腫瘍と診断される。7月、慶應義塾大学病院で膀胱全摘出手術を受ける。9月末、退院し自宅静養。1983年(昭和58年)1月、腎不全を起こしたと見られる。慶應義塾大学病院に再入院したが2月末に容体が悪化し、1983年(昭和58年)3月1日午前1時40分、腎不全による尿毒症と呼吸循環不全のため慶応義塾大学病院死去[5]
業績
学生時代

父・豊造の洋行土産のレコード蓄音機の影響で小林は若い頃から音楽ファンとなる。


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