小林武史
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山形県新庄市出身。山形県立新庄北高等学校卒業。烏龍舎代表取締役社長ap bank代表理事。日本音楽制作者連盟理事。Bank BandReborn-Art SessionYEN TOWN BANDLily Chou-ChouBRADBERRY ORCHESTRAのメンバー。また、My Little Loverの元メンバー。

サザンオールスターズMr.Childrenを手がけ、日本の音楽業界を代表するプロデューサーとして広く知られている。
経歴
音楽業歴

5歳からクラシックピアノを始めた[1]。兄の影響もあって多くの音楽、特に洋楽を聴いて育った[1]。高校の頃には、ジャズ理論なども自ら学ぶ。後に、バークリー音楽大学から帰ってきた先生にバークリーメソッドで音楽理論を個人的に学んでいた。バンドを組んで自作曲を演奏したり米軍キャンプ回りをする一方、20歳の頃にはスタジオミュージシャン(キーボーディスト)としても活動を始める。バークリー音楽大学に行きたい気持ちもあったが、日本でもある程度学べたことと仕事が増えたことで、実践で経験をつけていった[1]。1977年に廣田龍人が率いる「RICKY&REVOLVER」の結成に参加(1984年脱退、後任キーボーディストは吉俣良)。1978年にアン・ミュージック・スクールに入学[1]

1980年には、業界プレゼンライブ「第1回原宿音楽祭」に出場し優勝[1]。その頃、杏里への楽曲制作を依頼され初めて作曲を手掛けた「思いきりアメリカン」(1982年4月21日)がヒット。これを機に作曲家としても活動を開始(この曲以外の杏里への提供楽曲では、作曲のみならず、すべて作詞も手掛けていて、当時は杏里のサポート・メンバーでもあった)。またこの時、杏里のアレンジをしていた佐藤準の薦めでアレンジャー業も始めた。

25歳の頃、大村憲司との出会いをきっかけに井上陽水坂本龍一高橋幸宏大貫妙子麗美など数多くのアーティストの楽曲やライブにキーボーディストとして参加したり、松本隆筒美京平コンビの楽曲の編曲を手掛けるなど、瞬く間に引くてあまたとなる[1]

1987年に、桑田佳祐の1stソロシングル「悲しい気持ち (JUST A MAN IN LOVE)」(1987年10月6日)、2ndソロシングル「いつか何処かで (I FEEL THE ECHO)」(1988年3月16日)のアレンジに参加し、1stソロアルバム『Keisuke Kuwata』(1988年7月9日)と共に当時あまりメジャーではなかった小林が高く評価されるきっかけとなった。「このアルバムのシェフは小林君、自分は素材として気持ちよく仕事ができた」と桑田は語っている[2]

1988年、1989年には、小林自身が歌っているデモテープを聴いた大貫妙子の勧めで「小林武史」としてソロアルバムを2枚出したが、ほとんどプロモーションが無かったこともありセールス的には大きな影響を生み出せなかった(1stアルバム「Duality」に際しては制作費に3千万円かけたが、売り上げは1万枚にも満たなかった。「このころ、すでに女性ボーカルを探していたが見つからなかったので自分が歌ったが、難しかった」と語っている)[1]

サザンオールスターズの活動再開後の初シングル「みんなのうた」(1988年6月25日)からサザンの編曲にも参加するようになった。続くアルバム『Southern All Stars』(1990年1月13日)でもアレンジに参加し、桑田が監督した映画『稲村ジェーン』の音楽監督も務めた。収録曲で編曲を担当した「真夏の果実」「希望の轍」はサザンのライブでは必ずと言っていいほど歌われる曲となった。翌1991年は、原由子の2枚組ソロアルバム『MOTHER』(1991年6月1日)のプロデュース、編曲を手掛けた。この頃桑田が結成した(小林曰く“冗談のような”)期間限定バンドSUPER CHIMPANZEEにも参加、日清パワーステーションで洋楽、NHKで邦楽のカバーライブを行った。このライブの模様は桑田佳祐『Acoustic Revolution Live at Nissin Power Station 1991.3.26』(DVD / VHS / LD)で観ることができる。

その後もサザンの活動に参加し、『世に万葉の花が咲くなり』(1992年9月26日)のアルバムプロデュースに加わる。桑田からの評価は揺るぎなかったが、評価の高さのあまりレコーディングの際にバンドメンバーではなく小林一人に頼りすぎてしまう状態になったため(桑田は後に「あいつは危ないヤツだとわかった」と語った[3])、シングル「クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る)」(1993年11月20日)を最後にサザン・桑田の音楽活動に参加することはなくなった。

この頃、ほかにプロデュースを手掛けていたアーティストに大貫妙子渡辺美里小泉今日子などがおり、作曲・編曲を手掛け小泉唯一のミリオンセラーとなる「あなたに会えてよかった」(1991年5月21日)で第33回日本レコード大賞編曲賞を受賞。後に「この曲でメロディーメーカーとして世間に認知されたことが大きな自信になった」と小林は語っている[要出典]。
TK時代

小林が「まっさらなバンドをプロデュースしてみたい」とメジャーデビュー時(1992年)からプロデュースしていたMr.Childrenは当初なかなかヒットしなかったが、アルバム『Versus』(1993年)の頃から徐々にブレイク。1995年にはかねてからデビューさせたかったAKKOとギタリスト・藤井謙二MY LITTLE LOVERとしてデビューさせる。楽曲のほとんどが小林の作詞作曲によるもので、シングル3作目の「Hello, Again ?昔からある場所?」(藤井との共作)、1stアルバム『evergreen』共に200万枚を超える大ヒット。ヒットメーカーの名を不動のものとし、当時trfglobeのプロデュース業で大活躍していた小室哲哉とイニシャルが同じことから「TK時代」と呼ばれた。MY LITTLE LOVERは2000年代に入ってからは、以前ほどの売れ行きを見せなくなったが、Mr.Childrenは依然として大きなセールスを続け日本を代表するモンスターバンドとなった。

また1995年には、桑田とMr.Childrenを共演させたシングル「奇跡の地球」を発表。また岩井俊二監督の映画『スワロウテイル』(1996年)の音楽監督を務め、同映画の主人公を演じたCharaがボーカルを務める架空のバンド・YEN TOWN BAND名義で出したシングル「Swallowtail Butterfly?あいのうた?」(1996年7月22日)、アルバム『MONTAGE』(1996年9月16日)をヒットさせた。岩井とは、映画『リリイ・シュシュのすべて』(2001年)でもタッグを組み、映画と連動した架空の歌手・Lily Chou-Chou(役はSalyu)の作品をリリースした。

1996年、My Little LoverのボーカルのAKKOと結婚した。1998年、ソニー・ミュージックエンタテインメント内のSony Music Associated Recordsに「ZONE LABEL」を旗揚げし、Woman's SoulMANGAHEAD・Lily Chou-Chouをプロデュースするも2年で休止する。
現在

この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2011年1月)


Mr.Childrenはプロデューサーとして共に活動していたが、ツアー自体は2007年の『Mr.Children HOME TOUR 2007』で初めてキーボーディストとして帯同。それ以降のフェスなどにも参加していたが、2014年のライブからサポートを外れている。同時に2015年発売の「REFLECTION」では小林がプロデュースした曲は数曲にとどまり、Mr.Childrenのセルフプロデュースが中心となった。


MY LITTLE LOVERは2004年以降活動を休止していたが、2006年7月にAKKOのソロプロジェクトとしてエイベックスに移籍を発表。再始動シングル「り・ぼん」(2006年11月8日)、アルバム『akko』(2006年12月6日)では小林は作詞・作曲は行わず、一部の曲でキーボーディストとして参加、エグゼクティブプロデューサーとしてクレジットされている。


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