小林一三
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実業界屈指の美術蒐集家、また茶人としても知られ、集めた美術品の数々は、彼の雅号をとって「逸翁(いつおう)コレクション」と呼ばれている。これらを集めた「逸翁美術館」が、彼の旧邸・雅俗山荘があった大阪府池田市にあり、美術館は以前は雅俗山荘の建物が使用されていた。雅俗山荘は小林一三記念館として一般公開されている。

近代日本料理の創始者とも言われる湯木貞一と親交が深く、彼が開いた料亭吉兆の初期の頃からの客であった。上客でもあったため、当時の料亭内では小林を「神様」と呼んでいた。
来歴・人物小林一三像(花の道)小林一三像(宝塚大劇場)

山梨県巨摩郡河原部村(北巨摩郡韮崎町を経て、現在の韮崎市)の裕福な商家「布屋」に生まれた。生まれてすぐ母が死去、父とも生き別れたため、おじ夫婦に引き取られ育つ[6]

高等小学校から東八代郡南八代村笛吹市八代町南)の加賀美平八郎が経営する私塾・成器舎[注 2] を経て、1888年(明治21年)2月に福澤諭吉が塾長の慶應義塾に入る。その日から塾の構内にある、塾監・益田英次の家に寄宿。在学中には山梨日日新聞において小説「練絲痕(れんしこん)」を連載している[7]

そして、1892年(明治25年)慶應義塾正科(現在の慶應義塾大学)卒業後の1892年(明治25年)には三井銀行三井住友銀行の前身)に入行。34歳まで勤め、東京本店調査課主任にまで昇進した。日露戦争終結後、三井物産の大物である飯田義一や、かつての上司で北浜銀行三菱東京UFJ銀行の前身のひとつ)を設立した岩下清周に誘われ、大阪で岩下が設立を計画する証券会社の支配人になるために1907年(明治40年)、大阪へ赴任[8]。しかし、恐慌に見舞われ証券会社設立の話は立ち消えとなり、妻子を抱えて早速失業してしまった。

その頃、鉄道国有法によって国有化された阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)の関係者が福知山線に並行する電気鉄道路線を敷設し、大阪の梅田から箕面・宝塚・有馬方面へ頻発運転を行うことを目的として設立されようとしていたが、恐慌に見舞われて全株式の半分も引き受け手がないといった苦境に追い込まれていた[9]。小林は箕面有馬電気鉄道の話を聞き、電鉄事業の同社には有望性があるとして、岩下を説得し北浜銀行に株式を引き受けさせることに成功。1907年(明治40年)6月に「箕面有馬電気軌道」と社名を改めて同年10月に設立されると、小林は同社の専務となった[10]。しかし社長不在のため、小林が経営の実権を握ることになった[11]。そして1910年(明治43年)に開業しているが、有馬までの開業ではなく、現在の宝塚本線箕面線に相当する区間にとどまっている[12][注 3]。これに先立って線路通過予定地の沿線土地を買収し、郊外に宅地造成開発を行うことで付加価値を高めようとし、1910年(明治43年)に分譲を開始した。小林には、この時すでに「大衆向け」住宅の発想があったのか、サラリーマンでも購入できるよう、当時はまだ珍しかった割賦販売による分譲販売を行い成功を収めた。

同年11月には箕面に動物園、翌年には宝塚に大浴場「宝塚新温泉」(宝塚温泉武庫川対岸であったことからの命名)、そして1914年(大正3年)4月には、当時人気を得ていた三越の少年音楽隊を模して宝塚唱歌隊、後の宝塚歌劇団を創り上げ、沿線を阪急グループの聖地として大きく発展させていく[13]

沿線開発は、そのまま乗客の増加につながり、続いて神戸方面への路線開業に動き出すのを機に、会社名を阪神急行電鉄と改め(「阪急」の略称はこれ以後誕生)、神戸線などを建設し、大阪・神戸間の輸送客の増加とスピードアップを図った。これらの経営が現在の阪急を創り上げる支えとなった。1927年(昭和2年)に小林は社長に就任した[14]

また1920年(大正9年)には、日本ではじめてのターミナルデパートを設ける計画をすすめる。路線の起点となる梅田駅にビルを建設し、1階に東京から白木屋を誘致し開店、2階に阪急直営食堂を入れた。白木屋の成功を受けて「阪急マーケット」と称した自社直営の日用品販売店を2・3階に入れた。1929年(昭和4年)3月には「阪急百貨店」を、新ターミナルビルの竣工に合わせて開店させた[15]

鉄道会社が直営で百貨店を経営する事例は世界初で、その前途に不安や疑問を持つ者も少なくなかったが、小林は「素人だからこそ玄人では気づかない商機がわかる」「便利な場所なら、暖簾がなくとも乗客は集まるはず」などと言って事業を推し進め、世界恐慌のさなか多くの客を集めることに成功する。客のことを考えた事業姿勢がソーライスの逸話などに残されている。阪急百貨店は1947年(昭和22年)に阪急電鉄から分離独立し直営ではなくなったが、以後も文化的なつながりを保ちブランドとも言える「阪急」のイメージを確立し続けている。

百貨店事業の成功は、1929年(昭和4年)に六甲山ホテルの建設・開業といったホテル事業など派生事業の拡充、1932年(昭和7年)の東京宝塚劇場、1937年(昭和12年)の東宝映画の設立(1943年に両者は合併し、現在の「東宝」となった)といった興業・娯楽事業、1938年(昭和13年)の第一ホテル(東京・新橋)の開設とさらなる弾みを付ける契機となり、阪急東宝グループの規模は年々拡大の一途を辿った。

また小林は、他社への参画や協力を惜しまなかった。東京では1918年(大正7年)に渋沢栄一[16]らが創設し、田園調布[17]を開発した田園都市株式会社[18](後の東京急行電鉄)の経営を、名前を出さず、報酬も受け取らず、日曜日のみ、という約束で引き受け、玉川調布方面の宅地開発と鉄道事業を進めた[19][20]。田園都市株式会社から鉄道部門を分離した目黒蒲田電鉄、及びその姉妹会社である東京横浜電鉄は、五島慶太に経営を引き継いだ後、小林の手法を用い東横線沿線に、娯楽施設やデパートを作った[注 4]

一方、福岡市においては、2代目中牟田喜兵衛が百貨店の開業を計画しており、小林は松永安左エ門の仲介で中牟田に出会い「鉄道の乗客を百貨店に引き込めば、電車も相乗効果でうまくいく。阪急のノウハウも伝授するからぜひ、やってみたらどうか」と協力を約束[22]。小林の後押しを得た中牟田は、1936年(昭和11年)に九州鉄道福岡駅九州初となるターミナルデパート「岩田屋」を開業。のちに同社は九州最大の百貨店へと成長し、天神地区が九州最大の商業地区となる礎を築き上げた[23]

小林は野球への造詣も深く、日本で3番目のプロ野球球団である宝塚運動協会は1929年に解散し失敗したが、1934年(昭和9年)に大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)が、翌1935年(昭和10年)に大阪タイガースが、1936年(昭和11年)に名古屋軍が結成されるなど企業による球団設立が相次ぐと、同年に「大阪阪急野球協会」を設立した。これが阪急職業野球団、のちの阪急ブレーブスである[注 5]。小林は「私が死んでもタカラヅカとブレーブスだけは売るな」と言い残したとされる[注 6]

これらの施策は多くの私鉄に影響を与え、特に上述の五島慶太や、西武グループを率いた堤康次郎、九州鉄道(現・西日本鉄道)及び岩田屋の中牟田喜兵衛は、小林の影響を強く受けている。


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