小松政夫
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もう、知らない、知らない、知らなぁーい、もー!」とオカマっぽく体をクネクネさせながら言った芝居がプロデューサーの目に留まり、翌日の収録時には台本に小松の出番が設けられていたという[16]

また、付き人だった当時は『シャボン玉ホリデー』に松崎真がレギュラーで出演しており、植木が「松崎ー!」と呼ぶと、本名が松崎の小松も一緒に返事をしてしまうケースが多々あったことから「小さいほうの松崎」という意味で「小松」と呼ばれるようになり、やがてメンバーやスタッフの間で定着した[17]。そのうちに前座や端役などで出演が増えて視聴者にも顔を覚えられるようになり植木より正式に「小松政夫」(当初は「雅夫」)と芸名を命名されることになった。なお、この芸名を考えたのは姓名判断に凝っていたという植木の祖母であり、小松という苗字に合うということで下の名前を決めたという[18]。ただ、小松は当初「コメディアンなのに、こんな二枚目みたいな名前でいいのか」と一瞬当惑したという。

なお、芸名の候補としては植木と同じクレージーキャッツのメンバーだった犬塚弘が考えた「どん・たくお」(博多どんたくから)や、自身がコントで演じた外国帰りの怪しげな美容師の役名だった「ジェームス本堂」などがあり、小松もそれなりに気に入っていたが、植木に相談した際「将来大河ドラマの主役を張るようになるかもしれないのに、そんな名前じゃ苦労するだろう!」と却下になったという。

クレージーキャッツのリーダー・ハナ肇からもたいへん可愛がられ、1967年にクレージーが梅田コマ劇場大阪市北区)での公演に出演した際、途中15分の休憩を嫌ったハナから「5分つないでくれ」と命じられたことがあった。しかし2日目までの出し物がまったく客に受けず、背水の陣で挑んだ3日目に生まれたのが今日まで小松の十八番となっている淀川長治物真似である。この時はハナや植木のみならず苦労を知っていた舞台裏のスタッフも一緒になって喜び、翌日以降にメガネ(ひもを引くとピクピク動く眉毛が付いている)やテレビフレームなど芸を盛り上げる小道具・大道具をわざわざ作って用意してくれたといい、それらを活用することでさらに客からのウケが良くなったと述懐している[19]

付き人兼運転手を約4年間[注 3] 務め上げた。独り立ちの際に植木からかけられた言葉は、「お前、明日からもう俺のところには来なくていいからな」というあまりに突然なものだった。この言葉に小松は驚くとともにクビなのかと一瞬当惑したが、続けて植木は「実はな、社長(渡辺晋)と話してお前を正式にタレントとして一本立ちさせてやりたいってお願いしたんだ」、「そうしたら社長も大賛成でな、お前のマネージャーも給料も、全部決めてきたから」とその真意を語った。「そろそろデビューする頃か」などの前フリも無く、何年ぐらいで独り立ちできるかも知らず、覚悟すら出来ていなかった時期での発言であった。植木から言葉をかけられ、運転中に涙がボロボロとこぼれて運転ができなくなってしまい、一度路肩に車を停めて大泣きしながらそれを植木に謝る有様だったが、植木は「うん、べつに急いでないけど、そろそろ行こうか」と優しく宥めたという。この時のことを、小松は「目にワイパーが欲しいぐらいだった」と後に述懐している[11]

その後は学校の担任やキャバレーでのホステスの会話など、これまで接してきた人たちからヒントを得たギャグや、レギュラー番組のコーナーからヒットした「電線音頭」(1976年発売)、「しらけ鳥音頭」(1978年発売、30万枚超え[20]、または60万枚[21] を売り上げた)、「タコフン音頭」(1980年発売)、淀川長治の物真似などで一躍人気コメディアンとなる。植木も認める観察眼の持ち主だったといい、それが数多くのギャグや物真似芸を生み出した原動力であったと評される。

正式なコンビというわけではなかったが、伊東四朗との息の合ったコンビ芸は、1970年代を代表するギャグの一つとして今もなお語り継がれている。1975年の『笑って!笑って!!60分』、1976年の『みごろ!食べごろ!笑いごろ!』の両バラエティ番組では、「小松の親分さん」、「悪ガキ一家の鬼かあちゃん」など数々の名コントを演じた(先のデンセンマンによる「電線音頭」や「ずんずんずんずん?小松の親分さん♪」、「ニンドスハッカッカ マー、ヒジリキホッキョッキョ」など)。また前述の身近な人にヒントを得たギャグの誕生には伊東も大きく貢献しており、楽屋で伊東は「てんぷくトリオ時代の地方回りでこんな面白い人がいたよ」と話した。すると小松は「面白いですね。それいただきます!」と言って、その人の会話などをヒントにギャグのフレーズを作り出した[5][注 4]。ちなみに『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』では「しらけ鳥音頭」[注 5]が一世を風靡したが、放送中これを真似した子供たちがこたつの上で踊りだして、親に叱られるという事態が全国で頻発したという[5]

一方で、東八郎とも植木のもとから独立して以降共演の機会がある毎に交遊を深め、後年東が東八郎劇団を立ち上げた際には、「お前を副座長として迎えたい」と直々に口説き落とされ、東が逝去する当年まで本多劇場(東京都世田谷区)や新宿コマ劇場(東京都新宿区)での公演にて、息の合った共演をみせ人気を博した。小松は東のことを「植木等が小松政夫の生みの親なら、育ての親は東八郎」と述懐している[22]
「お呼びでない」誕生秘話と、植木との師弟関係

植木は、自身の代表的なギャグ「お呼びでない」について、多くのインタビューでは次のような趣旨の発言をしていた。

小松が植木の付き人時代、『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ)でのショートコントの最中に勘違いをして、出番前ではないのに「出番です」と植木に言ってしまい、植木がつい舞台に出てしまった。当然、周囲は植木の場違いな登場に唖然としたが、その瞬間に植木は機転を利かせて「お呼びでない……? ……こりゃまた失礼致しました!」とアドリブを放った[23]。傍で見ていたプロデューサーはこのアドリブに大笑いし、以後、「お呼びでない」は毎回のように使われるギャグとなった。

青島幸男も引用していたこのエピソードについて小松自身は、「自分は(付き人になる以前の)サラリーマン時代にあのギャグで大笑いしていた」[24]「あの聡明な植木等が、いくら私に言われたからといって、自分の出番を間違えるはずがありません」と語るなどして否定している。植木の「お別れの会」での弔辞でも、「『お呼びでない』は小松がきっかけだとオヤジさん(植木)はおっしゃっていたようですが、私はオヤジさんの出番を間違えるようなことはしていないと思うのです」と述べている。そして、「事実でなくても、自分のため(小松を売り出すため)に作ってくれたエピソードであり、本当に感謝している」とも語っている[25]

植木の死後、TBSテレビで放送された追悼特番で小松は、付き人時代から小松単独での番組出演オファーがあった時期のことを「自分は当時まだ勉強中の身でありながら、番組に出るなんてとんでもないと思っていたんです。しかしそれを植木さんに相談したら、すごく喜んで頂いて『結構なことじゃないか。行って来い。行って勉強してきなさい』と、笑顔で背中を押してもらいました。一人で番組に出ることを咎められたことはありませんでした。あの優しさは今も忘れられませんね」と懐古している。

ほかにも小松は、

植木と一緒に蕎麦屋に食事に入った際、付き人の小松は植木への謙遜と、時間がかからないものとしてかけ蕎麦を注文する傍ら、植木は天丼カツ丼を注文したが、いざ運ばれてくると植木は天丼を半分ほど食べたところで「あぁ、そういや俺、医者から脂っこいもの止められてたんだった。悪いけど、これお前が食べてくれ」とカツ丼をスッと小松の前に差し出した[26]

実際の芝居の際にも本番後に植木から「どうだった?」と尋ねられ、「植木の演技は良かったが周囲のリアクションが弱かった」という旨を素直に伝えると、植木は監督のもとに出向いて撮り直しを申し出た[27]

持ちネタが受けずに焦った小松が慌てた末に大失敗をしでかし、収録に遅れを生じさせる失敗をした際、植木が「うちの松崎(小松の本名)が大変なご迷惑をお掛けしてすみませんでした」と自ら進んでスタッフに謝ってくれた[28]

独立後、植木と同席した仕事でお得意の「淀川長治の物真似」を披露した際に「私、いっつもこればっかりですねえ」と自虐的に言ったところ、出番が終わった途端に植木から舞台袖に呼ばれ「これは君が苦労して作り上げた芸だろう!それを『こればっかり』なんて言うことはない。自信を持ってやりなさい」と説教された。

小松が渡辺プロから独立する際、植木は渡辺プロ関係者に「もし(小松を)邪魔したり嫌がらせしたりするようなことがあれば、俺が黙っちゃいないぞ」と釘を刺し、小松には「何かあったら、いつでも俺のところに相談に来いよ」とその背中を押して快く送り出した。

小松の人気が爆発していた当時、一方で人気に陰りがみえて仕事が激減した植木を心配して自宅を訪ねたところ、逆に「最近はヒマでテレビばかり見てるんだ。お前の活躍を見てパワーをもらっているんだ。オレももう一花咲かせないといけないな[注 6]」と優しい一言を掛けられ、小松はトイレに駆け込んでひとり泣いた。

など、芸には厳しいがその一方では立場に関係なく真摯に向き合い、なおかつ面倒見が良くて優しく温かい植木の人柄ぶりをインタビューや著書で語っている。

なお、植木の死去に際して、小松は公演のため東京都にはおらず臨終には間に合わず、出発直前には植木の自宅にあいさつに出向いて植木本人と会ったのが最後となった。それでも、入院後の容態については植木の妻から逐一電話連絡を受けており、公演終了直後に急いで東京都の植木のもとに駆け付け、納棺に際して遺体の衣服を着替えさせるという弟子としての最後の仕事を務め上げた。
その後

その後も小松はバラエティ番組テレビドラマ、舞台など多方面で活躍した。1970年代後半から1990年代にかけては、『パナソニック ドラマシアター』(旧『ナショナル劇場』)や『月曜ドラマランド』の常連キャストでもあった。時代劇では悪党の子分役などが多かったが、後に善人役を多く演じるようになった。伊東は小松のことを「こんなに引き出しのある人はいないんだから」と評し[29]、引き続き数多くのギャグの引き出しを保った。

地元の博多祇園山笠には出身の岡流に属してしばしば参加ていたが、岡流が途絶えた後は知り合いの多い中洲流に参加した[30]


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