小松左京
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4歳のとき兵庫県西宮市に転居し、その後は尼崎と西宮で育った[7][注釈 1]京都大学で冶金工学を専攻し三洋電機の技術者となった兄は、戦争のさなかでも科学書を読み漁り、小松に科学の知識を教えた[8]。またこの兄は、広島に落とされた新型爆弾が原子爆弾であることを教えたという[9]

少年時代は病弱で、スポーツには興味が湧かず、歌と漫画と映画と読書に熱中した。また、母方の親戚がいる東京で歌舞伎を見たりもした。大阪でも文楽につれていってもらい、古典芸能についての知識も身につけた[10]。小学校5年の1941年の時に、NHK大阪放送局の子供向けニュース番組「子ども放送局」のキャスターに起用された[11]

1943年、第一神戸中学校入学。小松は、関西でいう「イチビリ」な性格で、笑芸やユーモア歌謡が好きであったため「うかれ」のアダナをつけられ、戦中は教師からにらまれていた。一方で、体が丈夫でなかったのにもかかわらず、柔道部に入った[注釈 2][12]。終戦時は14才だったが、当時は徴兵年齢がどんどん下がっており、「このまま戦争が続いて、自分も死ぬのだろう」と考えていたが、思いもよらず生き残った。そして、沖縄戦で自分と同年齢の中学生の少年たちが、銃を持たされて多数死んでいるのを知り、「生き残ってしまったものの責任」を考え、文学をそして、将来SFを書く契機となったという[13][注釈 3]
終戦後

戦後には、兄から教わったバイオリンの腕で、同級生の高島忠夫とバンドを組んでいた[14]。当時読んだ、ダンテの『神曲』の「科学的な知見も組み込んだ壮大なストーリー」に衝撃を受け、後にSFを書く基盤ともなり、また大学ではイタリア文学を専攻することとなる[15]

1948年に神戸一中を四修し、第三高等学校に入学。あこがれの旧制高校時代は「人生で一番楽しかった年」だったというが、本来「3年間のモラトリアム」のはずが学制変更のため1年で終わる[16]。翌年には京都大学文学部を受験し、イタリア文学科に進学。大学在学中に同人誌『京大作家集団』の活動に参加。高橋和巳三浦浩[注釈 4]と交流を持つ。ほかに福田紀一とも知り合う。当時デビューしたばかりの、安部公房の作品に熱中する[17]

日本共産党に入党して、山村工作隊など政治活動を行っていたのもこの頃である[注釈 5]。だが、原爆を投下したアメリカに対する反感からの「反戦平和」を唱える共産党に共鳴しての入党であり[注釈 6]、共産主義思想を真に信奉してのものではなかった[注釈 7]。そのため、ソ連の原爆開発にショックを受け、共産党の活動に疑問を抱き、後に共産党を離党する[18][注釈 8]

また、この時期に「もりみのる」「小松みのる」「モリミノル」名義で『おてんばテコちゃん』、『イワンの馬鹿』、『大地底海』等の漫画作品を雑誌『漫画王』等に発表しており、既にデビューしていた手塚治虫の影響が窺える[19]。当時の小松の漫画を愛読していた、漫画家にして漫画コレクターの松本零士とも後に親交ができ、『銀河鉄道999』の文庫版の解説も小松が記している。

ルイジ・ピランデルロについての卒論を提出して、1954年に大学を卒業。しかし、就職試験をうけたマスコミ各社の試験にすべて不合格。経済誌『アトム』の記者・父親の工場の手伝い・ラジオのニュース漫才の台本執筆等の職を経験する。また、産経新聞に入社していた三浦浩の紹介で、産経新聞にミステリなどのレビューも執筆する[20]

大学時代から、神戸一中の同級生たちと結成していたアマチュア劇団でも、戯曲執筆・演出・出演を担当していた。この時、オーディションに来た女性に一目ぼれして交際し、1958年に結婚。だが、生活は苦しく、妻の唯一の楽しみであるラジオを修理に出してしまったため、当時大阪に出現していた「アパッチ族[注釈 9]をモデルにした空想小説(カレル・チャペック山椒魚戦争』にインスパイアされている)を書いて、妻の娯楽にあてた。この作品が、後の長編デビュー作『日本アパッチ族』の原型となった[21]
作家1963年

三浦浩に知らされて1959年12月に早川書房が創刊した『SFマガジン』創刊号と出会い、ロバート・シェクリイの「危険の報酬」に衝撃を受け、自分もアメリカ流のサイエンス・フィクションを書こうと決意する[1]。1961年、早川書房主催の第1回空想科学小説コンテスト(ハヤカワ・SFコンテストの前身)に、「小松左京」のペンネームで応募した「地には平和を」が努力賞に入選。筆名の「左京」は、姓名判断に凝っていた兄から「五画と八画の文字を使えば大成する」と助言を受け、「左がかっていた京大生だから」ということで「左京」を選んだ。「地には平和を」は『SFマガジン』には掲載されず、入会したSF同人誌『宇宙塵』に掲載された[22][注釈 10]。翌年の第2回SFコンテストで『お茶漬けの味』が第三席となったが、編集長の福島正実からはすでに評価されており、それを待つことなく『SFマガジン』(1962年10月号)に掲載された『易仙逃里記』でデビューし、常連に加わる[24]

1963年、日本SF作家クラブの創設に参加(1980年-1983年に星新一矢野徹に続いての三代目会長)。盛んに上京し、SF作家仲間たちと交流した。

1963年『オール讀物』に「紙か髪か」が掲載され、中間小説誌デビュー。吉田健一扇谷正造に絶賛される。同年、短編集『地には平和を』を刊行し、1963年度下半期の直木賞候補となった[1]。1964年、光文社から処女長編『日本アパッチ族』を刊行[注釈 11][25]

1964年には加藤秀俊梅棹忠夫らと共に『「万国博」を考える会』を結成し[26]大阪万博のテーマや理念を検討。1967年にはモントリオールでひらかれていた世界博を視察。加藤、粟津潔泉眞也らと、万国博の娯楽施設のプランも作った。

また、このメンバーらで未来学も話題となり、1968年の「日本未来学会」の創設に、梅棹忠夫加藤秀俊林雄二郎川添登と参加する[27]。他に小松、加藤、川添、川喜田二郎の4名で「KKKK団」と名乗り、1966年に雑誌『文藝』に連続対談を5回連載した[28]。1967年には「KKKK団」の4名の共著の著書として『シンポジウム未来計画』(講談社、小松左京編著)を刊行した。

1964年から始まった近畿ローカルのラジオ番組「題名のない番組」(ラジオ大阪)や「ゴールデンリクエスト」(近畿放送(現:京都放送))で桂米朝らと知的で快活なトークを交わしたが、そこにあった常連リスナーからの投稿からアイデアを得て「蜘蛛の糸」「海底油田」「四次元ラッキョウ」などの多くの掌編をなした。彼の掌編はこの時期に集中している。

1965年にはベ平連創立時の「呼びかけ人」になった[29]。1966年には、東京12チャンネルに勤務していたばばこういちが主宰で、「ベトナム戦争についてのティーチ・イン」を行った際、小松は小田実開高健らとともに参加し、ベトナム戦争反対論を論じた。


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