小松左京
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2011年7月26日午後4時36分、肺炎のため大阪府箕面市の病院で死去[33]。80歳没[34][35]。没後、『復活の日』に登場するアメリカのアマチュア局コールサイン「WA5PS」が誰にも割り当てられておらず空いていることが判明、小松左京事務所に許可を求めた上で「小松左京記念局」として免許された[36]

2019年10月12日より12月22日まで、世田谷文学館にて、展覧会『小松左京展―D計画―』が開催された。D計画とは『日本沈没』の作中で遂行されるプロジェクト名から来ている[37][38]
小松左京と万国博覧会

民族学者梅棹忠夫は1963年、「情報産業論」を発表。センセーションを巻き起こした。小松は共に『放送朝日』に執筆していたのが縁で梅棹と知り合い、1963年の終わり頃、梅棹を中心にできた私的研究会に、小松も喜んで加わった。メンバーは、林雄二郎川添登加藤秀俊それに小松で、林は当時経済企画庁の経済研究所所長、川添は建築評論家、加藤は京都大学教育学部の助教授だった。このメンバーを主体に若手研究会による私的研究会「万国博を考える会」が結成される[注釈 12]。小松は当初、知的好奇心によるプライベートな集まりの研究を目的としており、国家プロジェクトとしての万博に関わるつもりはなかった[41]
小松左京と大震災

1995年1月に発生し、小松自らも被災した阪神・淡路大震災の際にはテレビ局のインタビューに答えて、視聴者のリクエストとヘリコプターなどの現場取材を連携させたライブによる安否情報の発信を提案した。いくつかのテレビ局が実際に試みたが、被害範囲が広すぎたことと、リクエストの信憑性を検証できないという指摘を受け、あまり成果を挙げないまま中止された。

ある高名な学者に、高速道路がなぜ倒れたかを共同で検証したいと申し入れたが、学者は「地震が予測をはるかに超えていただけ。私たちに責任はない」と言われ信じられない思いを受けた[42]

小松は『小松左京の大震災'95』を1996年6月に刊行し、震災の教訓として防災情報の共有化や、温かみのある復興の大切さを書いた。その後は、もう何もする気力がなくなり、鬱病をわずらったという。2000年ごろようやく回復[43]。その後も小松自身は震災からの復旧活動に積極的に関与していた。

2011年3月11日に発生した東日本大震災では「唯一の被爆国の国民として、SF作家になった人間として、事実の検証と想像力をフルに稼働させて、次の世代に新たなメッセージを与えたい」との言葉を残した[44]。復興を願い、「これから日本がどうなるのんか、もうちょっと長生きして、見てみたいいう気にいまなっとんのや」と記していた[45]。また、『3・11の未来 日本・SF・創造力』の序文を寄せている[46]
「日本沈没」について

最大のベストセラーになったのは1973年に光文社から刊行された『日本沈没』で、社会現象とまでなった。刊行前は「長すぎて売れない」と出版社側からは言われていたが、3月に発売すると驚くほどの売れ行きを示し、その年末までに上下巻累計で340万部が刊行された[47]福田赳夫や当時首相だった田中角栄も、この本を読んだという[48]

最初はタイトルは『日本滅亡』にするつもりだったが編集者が『沈没』を提案した[49]

1964年に世に現れた電卓であるが、小松はこれをすぐに導入し「使いまくって」、『日本沈没』を書いた、という。2011年7月29日の毎日新聞「余録」には13万円の電卓、とあり、同年11月24日のNHK『クローズアップ現代』では、小松の電卓としてキヤノンのキヤノーラ1200(12万6千円)が紹介された。別モデルと思われる話もあり、安田寿明によれば、37万円ほどの標準品を買い「目の玉が飛び出るほど高かったが、あれを使いまくったおかげで『日本沈没』が書けた」と小松は語ったという[50]。また、1979年に発売された初の国産ワープロである東芝のJW-10(630万円)も、いち早く一号機を小松左京事務所で使用していたが、その後、携帯できないことなどを理由に手書きに戻っている[51]

『日本沈没』は「第一部完」として発売され、第二部は「世界に流浪した日本人たちの運命」を描く予定であったが、「日本人」としての固有性を守るべきか、「国土を失った民族としてコスモポリタニズムに貢献」すべきか小松に迷いが生じ、執筆されなかった。後に高齢を理由に小松自身による執筆は放棄され、2003年11月から続編を作成するプロジェクト・チームが作られた。執筆は谷甲州が担当し、2006年7月に『日本沈没 第二部』が刊行された[52]
作風

SFマガジンでのデビュー以来、様々なジャンルにわたる多数の長短編作品やショートショートを世に送り出し、日本のSFを牽引した。その作風は人類の運命を描くハードコアSF(本格SF)から、ポリティカル・フィクションタイムトラベル物、歴史改変小説パラレルワールド物、スラップスティック、アクション物、SFミステリ、ホラーエロティックな作品、寓話的な作品やファンタジーに至るまで幅広い。

あまりの多面さに作風を一面的に断じる事は出来ないが、当時先端の科学や政治経済の知識を駆使し、プロットの練られた『日本沈没』『首都消失』のような作品から、下町を背景に描いた『コップ一杯の戦争』、日本を始めとする各種神話に取材した作品まで、非SFである歴史小説、中間小説(奇妙な女たちを描く短編「女シリーズ」や、古典芸能の知識が結実した「芸道小説」シリーズなどがある)も含めサイバーパンク以前のほぼ全てのジャンルに手を付けたといっても過言ではない[注釈 13]。また、非SFでも、あくまで「SF作家としての視点」から作品が構想されていることが、『小松左京自伝』に収録されている「自作解説」から分かる。

小松作品では純粋で正義感の強い青年が主人公を務めることが多い。これは、しばしば並び称される星新一、筒井康隆らには全くといっていいほど見られない特徴で、時おり人情、情緒、官能などをたっぷりと描く傾向も同様である。この辺りが小松作品に独特の熱っぽさと艶を与えている。

ソ連のSF作家イワン・エフレーモフの社会主義的SF論に対抗して書いた「拝啓イワン・エフレーモフ様」(巽孝之編『日本SF論争史』勁草書房に収録)をはじめとした、数々のSF論で「科学技術が、人間社会や人間の存在自体を変えてしまう時代の、『本流文学』としてのSF」を一貫して主張し続けている。ただし、この小松が理想とするSFは、小松ほどの博覧強記な作家でしか、書き得ないともいえる。

その他にも、日本各地や世界各地を旅しての文明論や、日本文化論、科学エッセイなどの、ノンフィクションも多数執筆しているが、これらについても「SF作家としての視点」からの壮大な視点から書かれている。

精力的な執筆で知られたが、健康問題もあり50代後半以降の創作はきわめて少ない。54歳から執筆開始された最後の単独執筆長編『虚無回廊』も未完に終わった。
評価

筒井康隆は「小松左京論」において、一般の作家は個別のアイデアを元に作品を個体発生させていくのに対し、小松はテーマを先に決め膨大な知識でアイデアを系統発生させて作品を仕上げていくテーマ敷衍型の作家であると評している。筒井はそれを、知識のたくさん詰まった長持をがらがっちゃがっちゃとぶちまける、といった風に表現している。[53]

広範な領域での業績と旺盛な活動力を岡田斗司夫唐沢俊一らは「荒俣宏立花隆宮崎駿を足して3で割らない」と評している[54]

批評家東浩紀は「小松は、戦後日本を代表する娯楽作家だっただけではない。また日本SFの創設者だっただけでもない。小松はそれよりもなりよりも、まずは知識人であり教養人であり、その溢れる知性に文学というかたちを与えるとき、SFという表現形式を見出したひとりの思索者だったのだ」と考える[3]

代表作には、時間と空間をまたにかけた壮大な長編『果しなき流れの果に』(1966年)が挙げられる。この作品は1997年の『SFマガジン』500号記念号で発表された、「日本SFオールタイムベスト」において長編部門1位を獲得した。さらに短編部門では同じく小松作品の「ゴルディアスの結び目」が1位になった。

初期長編では、娯楽色と思索性を高いレベルで両立させたSFミステリ『継ぐのは誰か』の人気も高い。山田正紀がこの作品を青春小説として評価している[55]


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