1964年には加藤秀俊、梅棹忠夫らと共に『「万国博」を考える会』を結成し[26]、大阪万博のテーマや理念を検討。1967年にはモントリオールでひらかれていた世界博を視察。加藤、粟津潔、泉眞也らと、万国博の娯楽施設のプランも作った。
また、このメンバーらで未来学も話題となり、1968年の「日本未来学会」の創設に、梅棹忠夫、加藤秀俊、林雄二郎、川添登と参加する[27]。他に小松、加藤、川添、川喜田二郎の4名で「KKKK団」と名乗り、1966年に雑誌『文藝』に連続対談を5回連載した[28]。1967年には「KKKK団」の4名の共著の著書として『シンポジウム未来計画』(講談社、小松左京編著)を刊行した。
1964年から始まった近畿ローカルのラジオ番組「題名のない番組」(ラジオ大阪)や「ゴールデンリクエスト」(近畿放送(現:京都放送))で桂米朝らと知的で快活なトークを交わしたが、そこにあった常連リスナーからの投稿からアイデアを得て「蜘蛛の糸」「海底油田」「四次元ラッキョウ」などの多くの掌編をなした。彼の掌編はこの時期に集中している。
1965年にはベ平連創立時の「呼びかけ人」になった[29]。1966年には、東京12チャンネルに勤務していたばばこういちが主宰で、「ベトナム戦争についてのティーチ・イン」を行った際、小松は小田実や開高健らとともに参加し、ベトナム戦争反対論を論じた。このイベントは、あまりに反戦論者が多かったため放送されず、ばばは、東京12チャンネルを退社した[30]。
1970年には「国際SFシンポジウム」を主宰。米・英・ソ等のSF作家を日本に招き、アーサー・C・クラーク、ジュディス・メリル、フレデリック・ポール、ブライアン・オールディスらが参加した。また、同年の日本万国博覧会ではサブ・テーマ委員、テーマ館サブ・プロデューサー(チーフ・プロデューサーは岡本太郎)を務めた。「太陽の塔」内の展示を、岡本太郎と考え、DNAの巨大な模型を作り、生物の進化を現すようにした。また、地下スペースに、石毛直道らが収集した世界中の神像や仮面を展示。そのコレクションが、1977年オープンの国立民族学博物館の元となった[31]。
1980年には、日本SF作家クラブ会長として、徳間書店をスポンサーとした「日本SF大賞」の創設に尽力。1981年1月発表の第1回受賞作には、科学を主題にした、本格的なハードSF短編集である堀晃の『太陽風交点』(早川書房、1979年)を強く推して、受賞させた。
1980年前後、東宝からのオリジナルSF映画の企画依頼に応じ、多数のSF作家を招いてブレーンストーミングを重ねたのち、小説を先行させて『さよならジュピター』を発表。映画化に際しては新会社を設立して自ら総監督兼脚本を務め、名目上だけではなく完全な陣頭指揮を取った。必ずしも好評価にはつながらなかったが多くのSF作家を育てた。
1986年、自身を投影した老科学者が宇宙へ飛び出し果てしない旅を続ける『虚無回廊』を執筆。この作品は結局未完となる。
1990年の国際花と緑の博覧会では博覧会の総合プロデューサー(泉眞也、磯崎新と共同)として活躍。また、5回にわたり「大阪咲かそ」シンポジウムのプロデュースを担当するなど執筆以外の活動も多岐にわたっている。これらのプロジェクトの経験は、のちに、著書『巨大プロジェクト動く』にまとめている[32]。
2000年より角川春樹事務所が主宰で小松左京賞が設立され、選考委員を務めている(2009年の第10回をもって休止)。
2001年より同人誌『小松左京マガジン』を主宰。毎号巻頭には編集長インタビューとして小松と著名人との対談が掲載されていた。
1993年に小林隆男によって発見されていた小惑星 (6983) が、2002年に「Komatsusakyo」と命名された。
2006年7月からは『小松左京全集完全版』(城西国際大学出版会刊)の刊行も始まった。この全集はハードカバーとしては日本で初めてオンデマンド印刷で作られることでも注目されている。2000年1月にはすでにオンラインで注文した作品を組み合わせてオンデマンドで印刷する『オンデマンド版・小松左京全集』(BookPark) が開始されている。
2007年に日本で開催されたワールドコン 第65回ワールドコン/第46回日本SF大会Nippon 2007にはデイヴィッド・ブリンと共に作家ゲスト・オブ・オナーとして招待された。
2008年には、『小松左京自伝 実存を求めて』が刊行された。
2011年7月26日午後4時36分、肺炎のため大阪府箕面市の病院で死去[33]。80歳没[34][35]。没後、『復活の日』に登場するアメリカのアマチュア局のコールサイン「WA5PS」が誰にも割り当てられておらず空いていることが判明、小松左京事務所に許可を求めた上で「小松左京記念局」として免許された[36]。
2019年10月12日より12月22日まで、世田谷文学館にて、展覧会『小松左京展―D計画―』が開催された。D計画とは『日本沈没』の作中で遂行されるプロジェクト名から来ている[37][38]。 民族学者の梅棹忠夫は1963年、「情報産業論」を発表。センセーションを巻き起こした。小松は共に『放送朝日』に執筆していたのが縁で梅棹と知り合い、1963年の終わり頃、梅棹を中心にできた私的研究会に、小松も喜んで加わった。メンバーは、林雄二郎、川添登、加藤秀俊それに小松で、林は当時経済企画庁の経済研究所所長、川添は建築評論家、加藤は京都大学教育学部の助教授だった。このメンバーを主体に若手研究会による私的研究会「万国博を考える会」が結成される[注釈 12]。小松は当初、知的好奇心によるプライベートな集まりの研究を目的としており、国家プロジェクトとしての万博に関わるつもりはなかった[41]。 1995年1月に発生し、小松自らも被災した阪神・淡路大震災の際にはテレビ局のインタビューに答えて、視聴者のリクエストとヘリコプターなどの現場取材を連携させたライブによる安否情報の発信を提案した。いくつかのテレビ局が実際に試みたが、被害範囲が広すぎたことと、リクエストの信憑性を検証できないという指摘を受け、あまり成果を挙げないまま中止された。 ある高名な学者に、高速道路がなぜ倒れたかを共同で検証したいと申し入れたが、学者は「地震が予測をはるかに超えていただけ。私たちに責任はない」と言われ信じられない思いを受けた[42]。 小松は『小松左京の大震災'95』を1996年6月に刊行し、震災の教訓として防災情報の共有化や、温かみのある復興の大切さを書いた。その後は、もう何もする気力がなくなり、鬱病をわずらったという。2000年ごろようやく回復[43]。その後も小松自身は震災からの復旧活動に積極的に関与していた。 2011年3月11日に発生した東日本大震災では「唯一の被爆国の国民として、SF作家になった人間として、事実の検証と想像力をフルに稼働させて、次の世代に新たなメッセージを与えたい」との言葉を残した[44]。復興を願い、「これから日本がどうなるのんか、もうちょっと長生きして、見てみたいいう気にいまなっとんのや」と記していた[45]。また、『3・11の未来 日本・SF・創造力』の序文を寄せている[46]。 最大のベストセラーになったのは1973年に光文社から刊行された『日本沈没』で、社会現象とまでなった。
小松左京と万国博覧会
小松左京と大震災
「日本沈没」について
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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