小松左京
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星新一筒井康隆と共に「SF御三家」と呼ばれ[2]、日本SF界を代表するSF作家であり、戦後の日本を代表する小説家でもあった[3]

1970年の日本万国博覧会でテーマ館サブ・プロデューサー、1990年の国際花と緑の博覧会の総合プロデューサーとしても知られる。宇宙開発の振興を目的とした啓発活動にも力を入れ、宇宙作家クラブの提唱者で顧問も務める。

広範囲で深い教養を備えた知識人であり、その活動範囲は幅広く膨大なジャンルにわたる[4]

デビューの直後から、通常の作家の枠を超えた八面六臂の活動を始めている。ジャーナリストして国内各地を歩き、メディア出演を精力的にこなし、未来学研究会やメタボリストなど、多くの学者やクリエイターと交流をもった。1970年の大阪万博では30代という若さで主要スタッフに名を連ね、関西財界や財界との密接な交流は晩年まで続いた。その姿は、今「SF作家」という言葉で想像されるものをはるかに超えている[3][5]

未来を書くSF作家としてデビューし、しかも好奇心旺盛だった小松は、単なるエンタテインメント作家ではない、未来について語る新世代の知識人として、独特の期待を寄せられる運命にあったといえる。実際彼はその期待に応え、小説執筆の傍らさまざまな言論人・建築家と積極的に交流し、様々な研究会、学会の設立に参加して積極的にコミットし、新しい知識人の一角を急速に占めていった。学者財界人を相手に文明論を語り、日本論を闘わせる精力的な人物だった[3]

他方で小松は自ら製作会社を立ち上げて若い作家を集め大型SF映画の制作にも乗り出している。小松が原作、脚本、総監督、製作全てにクレジットされ、公開した映画は興行成績こそ振るわなかったものの、ライトノベル作家やアニメーターなど、次世代のクリエーターの育成に大きな役割を果たした[3][5]

また、関西出身の知識人として京阪地域の愛着はとりわけ強く、さまざまな場でブレイン役を勤めた[3]

ほかにもエッセイや対談、メディア出演は数しれず、阪神大震災の際も活動を行っていた[3]
経歴
生い立ち

先祖阿波徳島県)の小松から千葉外房に行った漁師の一族[6]。父親は明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)夜学在学中に東京の老舗の漢方薬屋の娘と婚約しのちに結婚した[6][7]。父親が薬学を捨て電気機械の商いを志し、大阪で金属加工の町工場を興したため、大阪府大阪市西区で五男一女の次男として生まれた[7]。4歳のとき兵庫県西宮市に転居し、その後は尼崎と西宮で育った[7][注釈 1]京都大学で冶金工学を専攻し三洋電機の技術者となった兄は、戦争のさなかでも科学書を読み漁り、小松に科学の知識を教えた[8]。またこの兄は、広島に落とされた新型爆弾が原子爆弾であることを教えたという[9]

少年時代は病弱で、スポーツには興味が湧かず、歌と漫画と映画と読書に熱中した。また、母方の親戚がいる東京で歌舞伎を見たりもした。大阪でも文楽につれていってもらい、古典芸能についての知識も身につけた[10]。小学校5年の1941年の時に、NHK大阪放送局の子供向けニュース番組「子ども放送局」のキャスターに起用された[11]

1943年、第一神戸中学校入学。小松は、関西でいう「イチビリ」な性格で、笑芸やユーモア歌謡が好きであったため「うかれ」のアダナをつけられ、戦中は教師からにらまれていた。一方で、体が丈夫でなかったのにもかかわらず、柔道部に入った[注釈 2][12]。終戦時は14才だったが、当時は徴兵年齢がどんどん下がっており、「このまま戦争が続いて、自分も死ぬのだろう」と考えていたが、思いもよらず生き残った。そして、沖縄戦で自分と同年齢の中学生の少年たちが、銃を持たされて多数死んでいるのを知り、「生き残ってしまったものの責任」を考え、文学をそして、将来SFを書く契機となったという[13][注釈 3]
終戦後

戦後には、兄から教わったバイオリンの腕で、同級生の高島忠夫とバンドを組んでいた[14]。当時読んだ、ダンテの『神曲』の「科学的な知見も組み込んだ壮大なストーリー」に衝撃を受け、後にSFを書く基盤ともなり、また大学ではイタリア文学を専攻することとなる[15]

1948年に神戸一中を四修し、第三高等学校に入学。あこがれの旧制高校時代は「人生で一番楽しかった年」だったというが、本来「3年間のモラトリアム」のはずが学制変更のため1年で終わる[16]。翌年には京都大学文学部を受験し、イタリア文学科に進学。大学在学中に同人誌『京大作家集団』の活動に参加。高橋和巳三浦浩[注釈 4]と交流を持つ。ほかに福田紀一とも知り合う。当時デビューしたばかりの、安部公房の作品に熱中する[17]

日本共産党に入党して、山村工作隊など政治活動を行っていたのもこの頃である[注釈 5]。だが、原爆を投下したアメリカに対する反感からの「反戦平和」を唱える共産党に共鳴しての入党であり[注釈 6]、共産主義思想を真に信奉してのものではなかった[注釈 7]。そのため、ソ連の原爆開発にショックを受け、共産党の活動に疑問を抱き、後に共産党を離党する[18][注釈 8]

また、この時期に「もりみのる」「小松みのる」「モリミノル」名義で『おてんばテコちゃん』、『イワンの馬鹿』、『大地底海』等の漫画作品を雑誌『漫画王』等に発表しており、既にデビューしていた手塚治虫の影響が窺える[19]。当時の小松の漫画を愛読していた、漫画家にして漫画コレクターの松本零士とも後に親交ができ、『銀河鉄道999』の文庫版の解説も小松が記している。

ルイジ・ピランデルロについての卒論を提出して、1954年に大学を卒業。しかし、就職試験をうけたマスコミ各社の試験にすべて不合格。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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