小早川秀秋
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この国内召還と転封は蔚山城の戦いにおける秀秋の軽率な行動が原因とされることが多いが、前項で述べた通り、秀秋の帰国日程は蔚山城の戦い以前にすでに決定されており、また蔚山城の戦いへの秀秋の参加を裏付ける史料も存在しないため、実際には無関係であると考えられる[5]

この転封の際の大幅な減封により、秀秋家中は多くの家臣を解雇することとなり、長く付家老として秀秋を補佐してきた宗永もこの時、秀吉直臣の加賀大聖寺城主となって秀秋の元を離れている。隆景以来の旧小早川家家臣の高尾又兵衛や神保源右衛門らは、代官として派遣されてきた三成の家臣として吸収された[4]。秀秋からの筑前没収は、朝鮮出兵の長期化の中での日本国内の兵站補給拠点である博多を含めた筑前の直轄支配の一環とも考えられる[9]

慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が死去[8]すると、その秀吉の遺命をもとに、慶長4年(1599年)2月5日付で徳川家康五大老連署の知行宛行状が発行され、秀秋は筑前・筑後に復領、所領高も59万石と大幅に増加した[10]。この時に博多の町衆の意向を受けて、秀秋は山口宗永によって否定されていた博多への「守護不入」復活を約束している[9]
関ヶ原の戦い松尾山にある関ヶ原の戦いの小早川秀秋陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)

秀秋は当初、慶長5年(1600年)7月18日から8月1日の伏見城の戦いでは西軍として参戦していた。その後は近江や伊勢で鷹狩りなどをして一人戦線を離れていたが、突如として決戦の前日に当たる9月14日に、1万5,000[11][注釈 3]の軍勢を率い、関ヶ原の南西にある松尾山城伊藤盛正を追い出して入城した。

関ヶ原本戦が始まったのは午前8時ごろであり、午前中は西軍有利に戦況が進展する中、傍観していた。たびたび使者を送ったにもかかわらず傍観し続ける秀秋に家康は苛立っていた[13]といい、秀秋の陣へ鉄砲を撃ちかけたともいう。ただし、藤本正行は当時の信用出来る史料で威嚇射撃は裏付けることはできないとして、家康は小早川軍に鉄砲を撃ち込ませてはいないとする[14]。現代の実地調査では、地理的条件や当時使用されていた銃の銃声の大きさや、現場は合戦中であり騒々しいことから推測すると、秀秋の本陣まで銃声は聞こえなかった、もしくは家康からの銃撃であるとは識別出来なかった可能性が高いことも指摘されている[15]。さらに近年では一次史料(「慶長5年9月17日付松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状」など)より、関ヶ原本戦開始は午前10時ごろで、秀秋の離反も開戦直後であった(傍観の事実も家康による催促の事実もない)とする見方も浮上している[16](詳細は関ヶ原の戦い#一次史料による合戦当日の記録参照のこと)。

いずれにせよ、秀秋は最終的には松尾山を下り、西軍の大谷吉継の陣へ攻めかかった。この際、小早川勢で一手の大将を務めていた松野重元は主君の離反に納得出来なかったため、無断で撤退している。秀秋に攻めかかられた大谷勢は寡兵ながらも、平塚為広戸田勝成とともによく戦って小早川勢を食い止めたが、秀秋の離反から連鎖的に生じた脇坂安治朽木元綱小川祐忠赤座直保らの離反を受け、吉継・為広・勝成の諸将は討死した。

これにより大勢は決し、夕刻までに西軍は壊滅、三成は大坂城を目指し伊吹山中へ逃亡した。関ヶ原本戦の翌日以降に行われた三成の居城佐和山城攻めなどでも秀秋は出陣している。

この秀秋の離反については、当初から家老稲葉正成平岡頼勝とその頼勝の親戚である東軍の黒田長政が中心となって調略が行われており、長政と浅野幸長の連名による「我々は北政所(高台院)様のために動いている」と書かれた連書状が現存している。白川亨三池純正らの、「高台院は西軍を支持していた」という異なる説やその他傍証もあり、この書状の内容について研究が待たれている(内容では北政所のために東軍につけとは直接言ってはいない)。また、本戦の開始前より離反することを長政を通じて家康に伝えており、長政は大久保猪之助、家康は奥平貞治を目付として派遣している。

一方で三成、吉継ら西軍首脳も秀秋の行動に不審を感じていたらしく、豊臣秀頼が成人するまでの間の関白職と、上方2か国の加増を約束して秀秋を慰留したとする史料もある。ただし、その史料は正徳3年(1713年)成立の「関原軍記大成」に収録されている書状で原本は確認されておらず、また文体に不審な点があることから偽文書の可能性がある[17]。松尾山は12日の時点で「中国勢を置く」との増田長盛宛の石田三成の書状が確認されており、それまで陣取りしていた大垣城主・伊藤盛正を追い出して着陣している。関ヶ原決戦が計画的なものでなく、突発的なものであったとする説では、三成は秀秋が松尾山城に陣取ったことで、最後尾の大谷勢の陣が脅かされて背後に脅威を得、急遽大垣城を出ざるを得なかったとする。事実、大谷勢の陣は松尾山城に向かって構築されていたことが確認されている。

『関ヶ原の闘い』で西軍方を裏切った行為に付いて、当時の秀秋への世評は芳しいものではなく、豊臣家の養子として出世したにもかかわらずに裏切り、西軍を瓦解させた事は卑怯な行為として世間の嘲笑を受けた[18][注釈 4]
岡山藩主大谷刑部の祟りに怯える秀秋 「魁題百撰相 金吾中納言秀秋」月岡芳年画、慶応四年 (1868)

戦後の論功行賞では備前国美作国備中国東半にまたがる、播磨国の飛び地数郡以外の旧宇喜多秀家領の岡山55万石に加増・移封された。戦後まもなく秀秋から秀詮へと改名している。秀詮はこの国替えの際に前領地の筑前国より年貢を持ち去っている。

岡山城に入った秀詮は家臣の知行割り当て、寺社寄進領の安堵といった施策を行う一方で、伊岐遠江守・林長吉ら側近勢力の拡充を図っている。


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