藩主の代数については、小島に陣屋を築いた信治を初代とする数え方もある[13]。 所領は、小島村を含む興津川流域の「山方」(「山行通り」)、駿府周辺の「府辺」(「中通り」)、安倍川河口部の「浜方」(「浜通り」)に大きく三分されていた。天保3年(1832年)時点では30か村で、幕末期まで知行地は変わらなかった[8][5]。宮ケ崎には府辺17か村を管轄する小島藩の役所が置かれていた[14]。 なお、幕末期の9代藩主・松平信進のとき、幕府領であった有度郡下川原が嘉永5年(1852年)松平丹後守(小島藩)領になり、万延元年(1860年)に松平和泉守領に移るまでの数年間小島藩領であった[15]。 幕府が大名に課す軍役の義務定数は、1万石の場合235人であり、小島藩の家臣団は102人だった。軍役の人員不足を郷足軽で補い、領地経営などの事務的な仕事を触元名主や藩御用達商人を登用するという小島藩独自の方法で補っていた。この項の内容は主に麻機誌をつくる編集委員会による「麻機誌」を参照にした。 小島藩直属の武士。計102人[7]。 内訳(蔵米取り22人、扶持金・扶持米受給者62人、扶持米取り18人) 郷足軽制、又は譜代足軽制と言われるもので、領内の農民の中で希望する者40名を譜代足軽とし、苗字帯刀を許し土地を与え、下級家臣の代わりにしていた[16]。また山間部の領地の平山村などで猟の為に鉄砲の所持を許可された者を、有事の際の戦力としていた[17]。 触元(ふれもと)名主は、苗字帯刀を許され、藩より扶持米を下賜された名主。普通の庄屋や名主よりも上位にあり、幕府で一時禁止されていた名主惣代役をまかされていた[18]。スタンスは藩よりで、小島藩は触元名主を各村に置いたという。 小島藩より扶持米を与えられた3人の商人。府辺21ヶ村は駿府の野崎彦左衛門と野呂伝右衛門、山方9ヶ村は興津宿の田中与兵衛を通じて年貢米の換金などをしていた[7]。 小島陣屋は宝永元年(1704年)に2代藩主の信治により建設され、廃藩されるまでの藩政の中心地であった。小島陣屋の警護は1万石のお墨付き保護の為か厳重であったと伝えられている[19]。移封後に駿府藩に引き渡され、駿府藩(静岡藩)主小島役所、私塾包蒙舎教場、小学校校舎として利用されたが、昭和3年(1928年)に建物は解体され、土地は民間に払い下げられた。一般の陣屋と異なり、表門が枡形の構えであり、城郭を思わせる石垣や建物遺構等が良好に残されていることから、平成18年(2006年)に国の史跡に指定される。 解体時に御殿の書院は地元に払い下げられ、国道52号沿いの現在の場所に移築された。小島町公会堂として利用され、現在は文化財資料館になっている。 現在は畑になっているが、龍津寺の南国道沿いの南沢には番所も設けられていた。旅人の検閲や警護の為ためだろうと推測されている[20]。 上屋敷は7代の信孝が旗本だった頃(天和3年(1683年))の武鑑によれば「飯田町の上」であったが、その後、元禄4年(1691年)の松會版武鑑では「大名かうし」、元禄8年(1695年)の松會版本朝武系当鑑 下屋敷は元禄8年版には表記がないが、宝永2年版に「高田ばば」とあり、後に「本所四つ目」や「目白だい」に移転している。 中屋敷は当初は所有していなかったが、幕末に「本所南わり下水に1屋敷所有」と記載されている。 江戸で藩主や家臣が死去した際に埋葬される菩提寺は、文政年間の須原屋版武鑑では2箇所記載され、浄土宗の西福寺(浅草)と英信寺(下谷坂本)とされる。ただし、江戸時代中期の戯作者、浮世絵師として「恋川春町」の名で著名であり、滝脇松平家小島藩の年寄本役(家老)を務めた倉橋格の親子が内藤新宿の浄土宗成覚寺に埋葬されているので、少なくとも家臣については厳密に定められていたわけではなかったことが確認できる[注釈 11]。 藩庁所在地の小島にある臨済宗妙心寺派の龍津寺
幕末の領地
駿河国
庵原郡のうち - 13村
有渡郡のうち - 6村
安倍郡のうち - 12村
藩体制
家臣団
郷足軽
触元名主
藩御用達商人
陣屋と陣屋町・江戸藩邸
陣屋詳細は「小島陣屋」を参照文化財資料館
江戸藩邸
菩提寺
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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