1945年3月10日の東京大空襲で小島一家は自宅を失い、埼玉県大里郡深谷町の親類宅に避難。のち小島のみ、浅草寺の支院で、当時の小島家の菩提寺である妙徳院へ身を寄せ、終戦を迎えた[2][6]。妙徳院の住職が浅草寺の執事長になったことにともない、小島も浅草寺に転じ、浅草寺の寺務員となり、「このまま僧として勉強していけば(略)生活は安定する」とすすめられたが、漫画家の夢をあきらめ切れない小島は誘いを断った[6][9]。 小島は復員した加藤芳郎と再会し、山本一郎
プロデビュー、独立漫画派
小島は1947年、「東京漫画人集団」の解散を機に[6]、発表の場を独占している状態にあった、既存の漫画家グループ「漫画集団」に対抗するため[11]、関根義人、中島弘二、馬場辰夫らと若手の投稿漫画家によるグループ「独立漫画派」(独漫派)を結成[2][5][7]。のちにやなせたかし、長新太、久里洋二、針すなおらが加入する[7]。小島ら「独立漫画派」は当初、既存雑誌より原稿料が安く、不安定な経営状況だったいわゆるカストリ雑誌を発表の場としていた[7][6]。彼らは『新漫画』[7]という雑誌に連載の仕事を得たが、同誌が6号で廃刊になるといった経験をしている。彼らの才能に目をつけた、新太陽社の編集者・吉行淳之介が、自身が編集長をつとめていた『モダン日本』に独立漫画派の発表の場を与えたほか、個人的に生活を援助した。この頃小島は、杉浦幸雄の「風俗漫画」における女性の描写にあこがれ、美人画に傾倒しはじめており[7]、吉行が小島の作風を理解し、「僕(引用注:小島)に初めて女を描かせた」という[6]。
1949年、『新夕刊』で連載を持っていた関根の紹介で、同紙の編集部に就職し、記事のカット(挿絵)を担当した。同年、漫画『ネバさん』で連載デビュー[6]。
独漫派は、吉行が移籍した三世社の『読切倶楽部』でも毎月依頼を受け、各メンバーが生活を安定させた[6]。この時期の小島個人の依頼は挿絵が多く、「挿絵画家にされるのがいやでコマ漫画を描き始めた[7]」。また小島は、伸び悩む独漫派の若手メンバーに発表の場を与えるために、同人誌『がんま』を創刊した。数千部印刷したが、あまり売れず資金に行き詰まり、7号で廃刊した[7]。これは(生原稿を郵送で回覧する方式だった『墨汁一滴』のような形式のものを除けば)日本初の漫画同人誌とみなされている[7]。 小島は「あらゆる分野の漫画家たちが一同に介し、社会的活動を通じてお互いを認識し表現者として安心できる環境づくり」を目指すため、すべての漫画分野を対象とする職能団体の必要性を感じ[11]、「漫画界全体の大同団結[7]」を望むようになった。1959年[2]、独漫派は存続派と解散派の不和が深刻化し、総会での投票によって解散が決定していた[7]。この前後に小島は何度も「漫画集団」に誘われて、そのたびに固辞していたが、「漫画家の健康管理や著作権問題を団体で解決する」ことを条件に[7]、1963年11月[12]、漫画集団に加入する。 小島の試みは、1964年[12][5]の日本漫画家協会設立で結実する。小島は協会の初代事務所として、かつて独漫派の共同事務所だった貸しビルの1室を提供した[6]。協会設立後は、著作権者に無断でキャラクター商品を製造・販売したり、漫画家に原稿料の未払いを続けたりする各企業に抗議を申し入れる活動を地道におこない、「漫画家の地位と福祉向上[7]」につとめた。日本漫画家協会では理事、常務理事(1971年4月[13])、初代総務部長(1985年12月[14])を歴任したのち、1992年6月に、加藤芳郎の後任として第4代理事長に就任した[15]。2000年5月、理事長を退任してやなせたかしに引き継ぐとともに、自身は会長となった[16]。2011年には名誉会長に就任した[2][5]。 1956年より、『アサヒ芸能』(徳間書店)で、連載漫画『仙人部落』を開始[2][7][11]。1974年からは『ビッグコミックオリジナル』(小学館)で『ヒゲとボイン』の連載を始め、いずれも晩年まで続いた長期連載となった[11][2]。1980年からは朝日新聞の政治漫画を担当した[2]。 1965年に、自身の制作事務所「コオプロ」を設立[17]。1973年には劇画の隆盛に対抗するため、加藤芳郎とナンセンス漫画復権を目指す同人誌『ユーモリスト』を発刊した[2]。 漫画連載のかたわら、テレビタレントとしても活動した。1964年、東京12チャンネル(現・テレビ東京)開局と同時に開始されたニュースワイド番組『朝日新聞・ワイドニュース』にレギュラー出演し、時事問題を風刺したイラストを発表した。また、1965年より約18年にわたって、日本テレビ放送網の深夜番組『11PM』にレギュラー出演した[2]。
漫画家協会の設立
円熟期・晩年