小室 哲哉(こむろ てつや、1958年〈昭和33年〉11月27日[3] - )は、日本のミュージシャン・音楽プロデューサー・キーボーディスト。東京都府中市出身。 3歳から12歳まで東京芸術大学教授の下でヴァイオリンのクラシック音楽の練習曲をひたすら同じフレーズを弾くレッスンを始めて、音感の基礎を学ぶ。小学生の頃からすでにクラシック音楽のインストゥルメンタルの楽曲を作っていた[7][8][9]。反面同時期に鍵盤楽器は習ったことはなく、その時の影響で後に「鍵盤楽器を弾く時に手がぺったりついてしまう」というピアノを弾く時に本来あってはならない癖を持ってしまう。しかし敢えて平たくすることで、オクターヴ奏法が楽にこなせる様になり、鍵盤楽器でベースのスラップ奏法が表現できる様になった[10]。 小学5年生のとき、母がエレクトーンを購入。これが鍵盤楽器との出会いとなる。母より先にコードを覚え、10日で基本操作をマスターし、エレクトーンの先生を驚かせた。同じ頃、母方の叔父からギターコードを習い、マスターするのが速くて叔父を驚かせた[8][11]。練習の時にフェリックス・メンデルスゾーンのメロディの歯切れの良さ・BPMの異常な速さ[12]、クラシック音楽の練習曲の子供でも飽きない多少の変化が考えられた構成[9] に影響を受けた。反面ピアノは独学であり、中学2年生の時に音楽の授業で周囲がギターを選ぶ生徒が多かった為に、あえてピアノを選ぶ形で弾き始めた[13]。プロの鍵盤奏者として改めて真剣に向き合い、自分の腕を客観視し始めたのは実に1983年に入ってからだった[14]。ただし、それが功を奏し、のちに「和音・管弦楽法を前提にした発想」より「主旋律は1本のみ、単音を目立たせる構成」という基本が小室の中で出来上がった[9]。 音楽の時間に50分で16小節を譜面に書く作曲のテストがあった際、教師が小室の作品を見て「誰かは言いませんけどこの中ですごく上手な人がいました」と言った後、その曲がピアノで披露されて、その曲を他のクラスメイトがリコーダーで吹いた。小室は当時を振り返り「目立ちたくない時期だったためものすごく嫌だった」「だけど自信にはなりました」と語っている[15][16][17]。日本万国博覧会でシンセサイザー・マニピュレーター・マルチモニター・12チャンネルステレオを背景に演奏する冨田勲を間近で見て、「もしモーツァルトの時代と同じ楽器しかなかったら僕はこの世界で勝負しなかった」と後述する程の衝撃を覚える[18][19]。 中学生の時にシンセサイザーを無性に買いたくなり、家にあったギター・ヴァイオリン・エレクトーンを家族に無断で売り、当時16万円以上したというシンセサイザー「ローランドSH1000
参加ユニット
SILVER STARS[1]
SPEEDWAY
TM NETWORK
小室哲哉プロジェクト[注釈 13]
ハンバーグ&カニクリームコロッケ
V2
T.C.D Hits
trf[注釈 14]
ダイナマイトマシーン[注釈 15]
TK-COZY-MST[注釈 16]
EUROGROOVE
t jungle m
H Jungle with t
globe
tk-trap
MUSEUM
Kiss Destination
tatsumaki
ROJAM
VIZITORS
GABALL
song+nation
TKCOM
TK SONG MAFIA[注釈 17]
TK feat. TK[注釈 18]
PANDORA
経歴小室哲哉が使用した機材とそれらによる変遷については「小室哲哉の使用機材」を参照
学生時代
早稲田実業学校高等部商業科に入学。小室の作曲テクニックにクラスメイトが憧れる余り、クラスメイトの半数以上の作曲の宿題を肩代わりさせられた。音楽担任は小室が卒業するまで気づかなかったという[23]。この頃からELP・ピンク・フロイド・レッド・ツェッペリン・キング・クリムゾン・T.Rex[注釈 19]・ユーライア・ヒープ・コモドアーズ・Kool & the Gang・Earth, Wind & Fire・ドナ・サマー・ディープ・パープル・Yes等の洋楽をプログレッシブ・ロック[注釈 20]・ファンクを中心に漁るように聞いた[26][27]。その中でも影響を受けたミュージシャンとして、キース・エマーソン・リック・ウェイクマン・ジョン・ロード・キース・ジャレット・ジョー・サンプル・デイヴ・グルーシン等のジャズ畑のピアニストを挙げ、特にキース・エマーソン[注釈 21]・キース・ジャレット[注釈 22]に関しては、即興演奏中心でプレイする姿勢に感銘を受けている。