ただし、小姫の年齢が当時6歳と幼かったことから、天正18年段階では縁組の取り決めを内外に宣言する、現代で言うところの「婚約式」を行ったもので、正式な輿入れが実現する前に小姫の早世があったため正式な婚姻には至らなかったとする見方もある[5]。
父の信雄が失脚後も、聚楽第の北政所のもとで養育された。翌天正19年(1591年)7月9日死去、享年不詳(先述の一説から換算すると7歳没)。死後は天瑞寺で法要が行われた。戒名の「甘棠院殿桂林宗香禅定尼」、「小夫人」の美称は7歳の童女としては異例の扱いである[3]。
なお、『寛政重修諸家譜』では、天正18年(1590年)の実父・信雄の改易によって離婚後、織田家に復籍し、その後佐々一義と再婚して寛永18年(1641年)まで生きたと記述している。ただし、天童藩織田家の系譜においては秀吉の養女になった娘と一義に嫁いだ娘を別人としている。また、前述のように秀吉の養女として豊臣・徳川両家の婚姻関係の成立を目的としていたとした場合、実父・信雄の問題で豊臣・徳川両家の政略に基づく婚姻関係を破棄するとは考えづらいと思われる。
脚注^ 坪内定益氏所蔵「織田系図」
^ 『多聞院日記』など
^ a b c 渡辺江美子「甘棠院桂林少夫人―豊臣秀吉養女小姫君―」(米原正義先生古稀記念論文集刊行会編『戦国織豊期の政治と文化』続群書類従完成会、1993年)
^ 黒田基樹「羽柴(豊臣)政権における家康の地位」黒田 編著『徳川家康とその時代』戒光祥出版〈シリーズ・戦国大名の新研究 3〉、2023年5月。ISBN 978-4-86403-473-9。P288-290.
^ 片山正彦「書評 福田千鶴著『淀殿 -われ太閤の妻となりて-』」『豊臣政権の東国政策と徳川氏』 思文閣出版〈佛教大学研究叢書〉、2017年。ISBN 978-4-7842-1875-2。P78-80(初出は織豊期研究会『織豊期研究』9号)
表
話
編
歴
徳川将軍家御台所
家康:築山御前 → 朝日姫
秀忠:小姫 → 豊臣達子
家光:鷹司孝子
家綱:浅宮
綱吉:鷹司信子
家宣:近衛熙子
家継:八十宮
吉宗:真宮
家重:比宮
家治:五十宮
家斉:近衛寔子
家慶:楽宮
家定:鷹司任子 → 一条秀子 → 近衛敬子
家茂:和宮
慶喜:一条美賀子