1984年に超党派で日米議員連盟を設立し、初代会長に就任する。1987年7月、経世会が結成され、田中派が竹下派、二階堂グループ、中立系に3分裂した際は残留し、二階堂グループに所属した[12]。
1990年の総選挙には出馬せず、政界を引退。1993年に信越化学工業会長として復帰する。しかし1995年の役員会で兄の小坂善太郎や役員から退陣要求を突き付けられて同社最高顧問に就き、第一線から退いた[13]。
日本短波クラブ名誉会長を1978年から務めた。日本テニス協会会長を務めていた1992年6月、バブル崩壊のため、ジャパン・オープン・テニス選手権のスポンサーからサントリーが降りたとき、冠協賛金4億円を負担してもらえるよう、東京都知事鈴木俊一に話を持ち込み、朝日生命と東京都がダブルスポンサーとなった。自治体が賞金大会を協賛するのは異例のことであった[14]。
1996年2月23日に80歳で没した。死後に信越化学から遺族に対して、信越化学からの多額の借入金の返済を要求された[15]。 1988年、勲一等旭日大綬章受章[16]。
栄典
家族関係
祖父は信濃毎日新聞創業者で衆議院議員を務めた小坂善之助[17][18]。
父は信濃毎日新聞社長→会長→社主、衆議院議員、貴族院議員、電源開発総裁の小坂順造[17][19]。
叔父は信濃毎日新聞社長、信越放送顧問、長野放送取締役の小坂武雄[17][20]。
兄は自由民主党の衆議院議員で外務大臣、労働大臣、経済企画庁長官を歴任した小坂善太郎[17][21]。
姉はのちに東京都知事を務めた美濃部亮吉の最初の妻・百合子(離婚)[22]。
妻は三井十一家の一つである本村町家2代目・三井弁蔵と、日本の女子ゴルフ草分けの三井栄子
娘婿は蝶の研究で知られる五十嵐邁である。
甥は文部科学大臣を務めた小坂憲次[17][20]。
叔母・はるは第13代日本銀行総裁・深井英五に嫁いだ[17][22]。
小坂の従姉であり、深井英五の長女の結子は日本を代表する天文学者・萩原雄祐の妻である[17][23]。
日本テレビ放送網副社長で元社長の萩原敏雄は萩原雄祐・結子夫妻の三男で、小坂の従姉の息子[17][20]。
読売テレビ(ytv)アナウンサーの萩原章嘉と札幌テレビ放送(STV)アナウンサーの萩原隆雄は萩原雄祐・結子夫妻の孫なので、小坂にとって従姉の孫にあたる。
エピソード
映画『トラ・トラ・トラ!』製作時に、黒澤明から山本五十六役での出演を懇願されるが断った[24]。
脚注[脚注の使い方]^ a b c 『閨閥』、324頁。
^ a b c 『海軍主計科士官物語〈短現総覧〉』47頁。
^ a b 『海軍主計科士官物語〈短現総覧〉』362頁。
^ a b c 『閨閥』、325頁。
^ ⇒「信越化学工業第89期有価証券報告書」東京大学
^ 小坂代議士が訪ソ『朝日新聞』1970年(昭和45年)9月3日朝刊 12版 2面
^ 伊藤 1982, p. 45.
^ 小坂徳三郎著『日本人永久繁栄論』188頁「総資産九兆円、じつは五十兆円ある」,講談社,1985年(昭和60年)
^ 小坂徳三郎著『日本人永久繁栄論』182頁「国鉄はいきなり六分割しても再建できない」182頁,講談社,1985年(昭和60年)
^ 屋山太郎著『日本の政治はどう変わったか:戦後総決算の意味するもの』197頁,PHP研究所,1987年(昭和62年)
^ 諸君1988年1月号199?200頁,文藝春秋,1988年
^ 『国会便覧 昭和62年8月新版』(第76版)日本政経新聞社、1987年9月1日、333-336頁。
^ 週刊新潮2003年7月10日号「特集 政界の名門「小坂徳三郎家」が兄・善太郎との「内紛」「相続税」で没落するまで」,新潮社,2003年
^ 冠大会に不況の風 スポンサーの降板目立つ 代役が見つからない例も 朝日新聞 1992年11月16日 夕刊3ページ