小唄勝太郎
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1936年(昭和11年)、JO映画『勝太郎子守唄』に主演。『娘船頭さん』『あんこ椿』と順調にヒットを続ける一方で、1937年(昭和12年)、作詞家の西條八十SKD江戸川蘭子らとともに中国大陸へ戦地慰問に赴いたのをきっかけに、その後も何度となく、前線の将兵を慰問している。又この頃、新橋で料亭「田川」を経営し、歌手と女将の二つの仕事をこなしていた[9]1938年(昭和13年)、戦地で病に倒れた際に、軍医・眞野鐐一と知り合い、二人は戦後になってからの1950年(昭和25年)に結婚した。勝太郎が亡くなった折の雑誌の取材では、「1948年(昭和23年)頃、当時築地にあった勝太郎の家に下宿していた友人を訪ねた際に勝太郎と知り合ったのが出逢いの真相だ」と眞野は語っており、有名な中国での出逢いのエピソードについては否定している[10]

戦時中も勝太郎の活躍は続き、1942年(昭和17年)に発売された『明日はお立ちか』は、放送局にリクエストの電話が掛かってくるほどの大反響を呼び、久々の大ヒットとなった。軍需工場の慰問などに忙しい日々を送っていた勝太郎であったが、内地で終戦を迎える。1946年(昭和21年)、コロムビアに移籍。古賀メロディー『伊豆の七島』、親交の深かった歌舞伎俳優・十五世市村羽左衛門を偲ぶ『橘屋』などをレコーディングするが、1948年(昭和23年)にはテイチクに移籍し、映画主題歌『大島情話』がヒットした。1950年(昭和25年)には親善使節として日本の芸能人としては戦後初めて、渡辺はま子、三味線けい子らと渡米し、ハワイロサンゼルスサンフランシスコと、現地の日系人に『東京音頭』を歌った歌手として大人気を博す。さらに、東海林太郎らとともにブラジルへも赴き、こちらでも日系人の熱烈な歓迎を受けている。

1961年(昭和36年)、設立間もない東芝レコードに移籍。主に端唄・民謡・各地の新しいご当地音頭を中心にレコーディング活動を続けた。又この頃、勝太郎と懇意で相三味線を務めたこともある、佐々舟澄枝(小唄佐々舟派二世家元。1939年にビクター専属となり、勝太郎の巡業に同行)の小唄の会に度々賛助出演し、『光』『春』『好いた同志』『お吉明け烏』といった澄枝の作曲による新作の小唄を開曲・披露している[11]

昭和40年代の懐メロブームには欠かせない存在となり、東京12チャンネルの「なつかしの歌声」には常連のメンバーで、死の直前まで出演している。1971年(昭和46年)に紫綬褒章を受章。それを記念して古巣のビクターでは『島の娘』や『東京音頭』など嘗てのヒット曲、テイチクでは『びんのほつれ』『春雨』などの端唄が再レコーディングされている。

1973年(昭和48年)8月、タヒチへの旅行から帰ってから身体の不調を訴えるようになり[12]1974年(昭和49年)6月21日、肺癌のため、東京都府中市の自宅で69年の生涯を閉じた。同年6月25日、勲四等宝冠章を追贈され、小唄勝太郎の輝かしい功績が讃えられた。

2004年(平成16年)は勝太郎生誕百年に当たり、地元有志の人々からなる「小唄勝太郎顕彰碑を建てる会」により、古びて体育用具室にしまわれたままであった勝太郎のピアノが同年3月に完全復元された。更に、勝太郎ゆかりの旧鶴善楼跡地に小唄勝太郎顕彰記念碑と勝太郎の石像が建てられ、9月25日に除幕式が行われた[4]

代表曲の一つである『柳の雨』は、戦後の1947年4月に再発され、1959年暮れまでに再発盤だけで37万3000枚を売り上げるロングヒットとなっている[13]
民謡・新民謡の普及の功績

勝太郎は「島の娘」などの流行歌のヒットも多く出したが、民謡のヒットも多い。殊に「佐渡おけさ」は、現地の盆踊りで唄われるものよりもテンポを落とし、節や三味線を勝太郎自身が端唄風にアレンジしたもので、人気を呼び何度も吹き込んでいる。同時期に村田文三などがレコードに吹き込み普及に努めたいわゆる正調の「佐渡おけさ」とはいささか趣が異なっていることもあり、地元からは「勝太郎のおけさは、地元のものとは違う」と非難の声が出たこともあった。そこで、勝太郎の唄い方を「勝太郎節」などと呼び、伝承の「佐渡おけさ」とは区別することもある。なお、伝承の節に比較的近い唄い方のものも「おけさ踊り」のタイトルでレコーディングしており、こちらもヒットしている。「佐渡おけさ」のほかにも「越後追分」や「三階節」「新潟おけさ」など新潟県の民謡を次々にレコーディングし、普及に貢献した。「越後追分」も、地元伝承のものとはやや節が異なり、勝太郎が端唄風にアレンジしたものである。

新潟民謡以外では「会津磐梯山」が持ち唄としてよく知られているが、これも地元のもの(カンショ踊り)とは異なり勝太郎が端唄風にアレンジしたもので、佐渡おけさのときと同じように地元から非難の声が出た。有名な「小原庄助さん、なんで身上しもうた…」の囃子も、勝太郎のアイデアで挿入したものであり、元来のカンショ踊りにはこのような囃子は入っていなかった。当時は「身上しもうた」と囃したのだが、戦後は「身上つぶした」と囃すことが多くなっている。勝太郎自身が後年ラジオ等で「私の会津磐梯山は地元のものとは違っていて、わかり易くするために私がアレンジをしたものです」と述べており、地元伝承のものとは異なる旨を明言している。ほかに「おばこ節(山形おばこの勝太郎節)」「関の五本松」「串本節」「博多節(ドッコイショ)」「磯節」など全国各地のお座敷調の民謡を積極的に吹き込み、普及に貢献している。

戦前は「新小唄」などと呼ばれた、地方の宣伝や紹介のために作られた新民謡も多く吹き込んでおり、中でも「東京音頭」「別府音頭」の2曲は大きな成功を収めた。後者は大分県の地方都市の新小唄であるにもかかわらず、大分県中で流行しただけでなく全国的に知られていた。ほかに「大師音頭」「軽井沢音頭」「スキー音頭」「美濃町音頭」「黒船音頭」「早鞆音頭」などを吹き込み、盆踊りの際に盛んに踊られた。殊に「大師音頭」と「スキー音頭」は、平成に入ってもなお盛んに踊られている。
その他

沼垂地区で営業している精肉店では、近隣でイベントがある際に出店を出し「勝太郎サンド」と称するハンバーガーを販売している。その名の通り、地元出身の勝太郎に因むもので、バンズにロースカツとキャベツを挟んだ手作りのカツバーガー。通常は発売されず、祭りやイベントなどでしか購入できないこともあって、一部では根強い人気を持つ。
代表曲

『佐渡おけさ』1931年(昭和6年)1月

島の娘』1932年(昭和7年)12月

『大島おけさ』1933年(昭和8年)6月

東京音頭』1933年(昭和8年)7月 《共唱:三島一声

『佐渡を想えば』1933年(昭和8年)12月

『さくら音頭』1934年(昭和9年)2月 《共唱:三島一声、徳山l

『祇園囃子』1934年(昭和9年)5月

『勝太郎子守唄』1936年(昭和11年)1月

『瑞穂踊り』1941年(昭和16年)7月 《共唱:市丸鈴木正夫、一色皓一郎、山本麗子》

『明日はお立ちか』1942年(昭和17年)3月

『大島情話』1948年(昭和23年)9月

NHK紅白歌合戦出場歴

年度/放送回曲目対戦相手
1953年(昭和28年)/
第4回島の娘竹山逸郎
1955年(昭和30年)/第6回お染東海林太郎
1956年(昭和31年)/第7回唐人お吉の唄


このうち、第6回と第7回はラジオ中継による音声が現存する。

第6回は歌唱している写真も現存する[14]


出演映画

『百万人の合唱』1935年(昭和10年)1月 《J.O.スタヂオ=日本ビクター》

『勝太郎子守唄』1936年(昭和11年)3月 《J.O.スタヂオ》

『うそ倶楽部』1937年(昭和12年)3月《P.C.L映画製作所》

『大島情話』1948年(昭和23年)12月 《大映京都》

『有頂天時代』1951年(昭和26年)7月《新東宝》

『湯の町情話』1951年(昭和26年)8月 《新映画社=大映》

『磯節情話・涙の恋千鳥』1952年(昭和27年)7月《新映=東宝》

『悲恋椿』1953年(昭和28年)5月 《大映京都》

『新越後情話』1953年(昭和28年)8月 《新東宝》

『社長と女秘書・全国民謡歌合戦』1963年(昭和38年)1月 《大蔵》

脚注[脚注の使い方]^ 『史料集共楽館 地域と共に歩んだ五十年』NPO法人共楽館を考える集い、1999年
^ a b 『昭和の歴史 5』大江志乃夫集英社、1980年、184頁
^ a b 『昭和の歴史 5』大江志乃夫、集英社、1980年、186頁
^ a b c 『新装版 古町芸妓物語 新潟の花街』藤村誠、新潟日報事業所、2014年、201頁、208頁、213頁
^ a b 「主婦と生活」1950年10月号、78頁、80頁
^ 「小説新潮」1955年2月号
^ a b 『女藝者の時代』岸井良衞、青蛙房、1974年、256頁


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