小倉隆史
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1995年アーセン・ベンゲルが監督に就任すると名古屋は転換期を迎えるが、小倉は6月14日のアトランタ五輪アジア1次予選タイ戦で右ひざの靭帯を痛める怪我を負った[9]。8月12日のNICOSシリーズ開幕戦から復帰するとストイコビッチと2トップを組んで活躍し、天皇杯では決勝で2ゴールを挙げて初タイトルに貢献した[9][10]

1996年2月、アトランタ五輪最終予選直前の合宿で右足後十字靭帯を断裂の大怪我を負う[10][3]。日本国内で一度目の手術を受けるが、当時の日本では後十字靭帯の手術は難しく手術は失敗に終わった[3][4]。この怪我によって得意の「左斜め45度から逆サイドを狙ったシュート」が打てなくなり、8ヶ月間のリハビリを受けながら[3]リーグ戦は14試合に出場したものの1得点のみと大きく成績を落とす。オフに再手術を受けるためにオランダへと渡り、リハビリに1年半を要したために1997年は全休する[3]1998年シーズン途中に実戦復帰するものの、これ以降ひざの状態と成績が元に戻ることはなかった[3][10][4]

2000年ジェフユナイテッド市原(期限付き移籍)、2001年東京ヴェルディ19692002年コンサドーレ札幌と毎年移籍を繰り返し、2003年に移籍したJ2ヴァンフォーレ甲府で3年間を過ごす。2003年・2004年は中心選手として活躍しするが、2005年は若手の台頭と戦術面や大木武に対する批判などから出場機会を失い、この年甲府はJ1に昇格するものの、オフに小倉は戦力外通告を受けた。最後の出場は第36節のベガルタ仙台戦(仙台スタジアム)であった。

小倉は現役続行を希望して2006年1月10日合同トライアウトに参加するが、オファーはなく2月10日に現役引退を宣言した。最後に所属した甲府がJ1としての初試合を行った2006年3月5日に、ホームスタジアムの山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場でのシーズン開幕戦(vs清水エスパルス)の試合前に小倉の引退セレモニーが行われた。
日本代表

1994年に帰国すると、早々にファルカン率いる日本代表にも選ばれ、その年のキリンカップでA代表デビューを果たす。フランス戦では途中出場ながら三浦知良と2トップを組み、エリック・カントナジャン=ピエール・パパンディディエ・デシャンマルセル・デサイーら錚々たるベストメンバーのフランスから劣勢の中、A代表初ゴールを奪う活躍を見せた。

アトランタ五輪に向けたU-22日本代表としても選出されチームの軸とも言える活躍をするが、日本代表としての1995年6月の試合中・1996年2月の練習中の2度の怪我を負い、特に2度目の怪我は致命的であった[3][10]。小倉は怪我から復帰するものの、以降日本代表に選出されることはなかった[3]
引退後

引退後には、スーパーサッカーNEWS23などの解説者として抜擢され、テレビ中継の解説[11] なども精力的に行っている。その一方で、2012年には日本サッカー協会のJFA 公認S級コーチライセンスを取得[12]

2015年6月1日付で名古屋グランパスのGM補佐に就任[13]。2016年にはGM兼監督となり、前任の西野朗体制下でも足枷となっていたストイコビッチ体制で生じた若手の練度不足という負の遺産[14][15]からの脱却のためにチームの全権が委ねられたが[13]、「ビジネスライクで情を欠いた」とも受け取られた選手との交渉姿勢は田中マルクス闘莉王などの流出を招いた[16][17]。1stステージ開幕戦から第10節までの9試合はほぼ5分の成績であったが[16][17]、監督1年目の小倉は指導者としての経験不足だったとも指摘され、対策されると対応ができずに1stステージ第11節から2ndステージ第9節までの17試合で1勝も挙げることもできずに8月23日に事実上解任された[13][18][19]


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