また、区の中心部には小倉城があり、北九州市の主な観光地の一つとなっている。碁盤目状の区割り、職人・職業の名称がついた町名(魚町、鍛冶町、馬借)など、城下町の名残があるが、小倉城周辺以外は商業地としての開発が進んだため、城下町としての景観はあまり残っていない。近年はリバーウォークや小倉駅ビルを始めとする大型商業施設、タワーマンションなどの建築が進み、リバーウォークの向かいにはタワーマンションの小倉D.C.タワーが建設された(145.7mの高さで、建設当時は福岡県内で最も高い建物だった)。
他に北側の響灘にある藍島および馬島も区域に含まれる。 1602年に細川忠興が小倉城を築城した後、城下町小倉が形成されていった。1632年には大名の配置換えにより譜代大名である小笠原忠真が小倉藩 - 豊前国15万石の藩主となる。その後小倉城は、1866年には長州戦争の際に小倉藩自らの手により火をつけられ焼失する。明治時代には廃藩置県により小倉県が誕生し小倉はその県庁所在地となる。福岡県に併合された後も豊前地方の経済の中心地として栄え、工業の分野でも小倉製鉄所などのような重工業が盛んであった。現在では、北九州市の中心区としてふさわしい商業地区・施設や街路・河川・橋梁などの整備が進んでいる。 以下、現在の小倉北区について記す。北九州市、小倉市の項目も参照。 北九州市の中心として位置付けられているため、区内には各交通機関の起点となる施設が存在する。
歴史
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制が施行され、小倉町・長松浦村・平松浦村が合併し、企救郡小倉町(きくぐん・こくらまち)となる。また、企救郡内には、足立村(あだちむら)、西紫村(にしむらさきむら)、板櫃村(いたびつむら)が発足。
1900年(明治33年)4月1日 - 小倉町が市制施行、小倉市になる。
1908年(明治41年)4月1日 - 西紫村を分割廃止。小熊野・篠崎地区が板櫃村に、蒲生(現在は小倉南区)、今村(現在の今町)地区が企救町(きくまち)に、それぞれ編入される。
1922年(大正11年)10月1日 - 板櫃村が町制施行、板櫃町(いたびつまち)となる。
1925年(大正14年)4月28日 - 板櫃町を分割廃止。大部分は小倉市に編入されるが、槻田地区と小熊野地区の各一部は八幡市に編入された。
1927年(昭和2年)4月1日 - 足立村を小倉市に編入。これによりおおよそ現在の小倉北区の範囲が小倉市となった。
1937年(昭和12年)9月1日 - 企救町を小倉市に編入。
1963年(昭和38年)2月10日 - 5市合併により北九州市発足、旧小倉市部分は概ね小倉区となった。但し、政令指定都市への移行は4月1日であったため、それまで小倉区は町名・大字の一部(接頭句)扱いであった。
1974年(昭和49年)4月1日 - 小倉区を小倉北区と小倉南区に分区。その際、旧企救町のエリアでは今町地区が小倉北区となった。
人口の変遷
1975年 223,869
1980年 217,204
1985年 214,149
1990年 202,051
1995年 194,194
2000年 187,684
2005年 183,286
2010年 181,936
2015年 181,878
2020年 182,898
交通
鉄道小倉駅
九州旅客鉄道(JR九州)
鹿児島本線
小倉駅 - 西小倉駅
日豊本線
小倉駅 - 西小倉駅 - 南小倉駅
小倉駅 - 西小倉駅は現在路線重複区間となっている。これは、西小倉駅への鹿児島線ホーム設置が国鉄民営化後であったため。但し、現在運用上は日豊本線は事実上西小倉駅起点扱いに近く、非優等列車どうしの乗り換えは西小倉駅で対応するほか、区間内で現在進められている紫川の橋梁嵩上げ工事に伴い区間運休する場合は、両駅間は鹿児島本線系統のみの運行となる(近年は2009年元日夜が該当)。