しかし、尊良親王は土佐を脱出して九州に渡り、元弘3年/正慶2年(1333年)、江串氏を味方につけて九州で挙兵した(『博多日記』)[10][11]。鎌倉幕府の九州統治機関である鎮西探題が滅亡しその長の赤橋英時が敗死すると、5月26日、大宰府に入った(『上妻文書』宮野教心申状(元弘三年六月日)等)[12][11]。その後、父の建武の新政が始まると、京都に帰還した[2][11]。 建武2年(1335年)、後醍醐天皇が足利尊氏の行動を疑問視して兵を出し、建武の乱が発生すると、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが、敗退した[2]。翌延元元年/建武3年(1336年)、一度は九州に落ちた尊氏が力を盛り返して上洛すると、後醍醐天皇は尊氏への降伏を決定する[2]。しかし、10月9日、義貞の別働隊が編成されると、異母弟である皇太子恒良親王と共に義貞に奉戴されて北陸に逃れ、翌日越前国金ヶ崎城に入った[2]。 延元2年/建武5年(1337年)1月、尊良親王が拠った金ヶ崎城に、高師泰と足利高経(斯波高経)を主将とする足利軍が攻めて来る(金ヶ崎の戦い)[2]。尊良親王は義貞の子・新田義顕と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き、3月6日に自害、義顕や他の将兵100余人もまた戦死した[2]。恒良親王は捕らえられて足利方に拘禁されたが、翌年に急死した[13][注釈 2]。 明治時代には、金崎宮が創建され、同時期に死亡した異母弟である皇太子恒良親王と共にその主祭神となった[2]。 歌聖藤原定家の子孫御子左家二条派の血を母方で引く尊良親王は、和歌を愛好し、『続後拾遺和歌集』に1首、『新葉和歌集』に44首が入選している[2]。また、尊経閣文庫に『一宮百首 『増鏡』作者の貴族(二条良基[注釈 3]など諸説あり)の証言によれば、尊良親王は美男子であったという[14]。尊良が父の後醍醐や異母弟の世良親王、親族の恒明親王と共に歩く姿に、宮中の若い女官たちは色めきだったであろう、としている(『増鏡』「春の別れ」)[14]。また、土佐国(高知県)配流中の尊良についても、「ふりがたくなまめかし」(以前のまま優美である)と、流浪の身にあっても容姿に衰えのないほどの美しさとして描いている(『増鏡』「久米のさら山」)[15]。 異母弟の世良および親族の恒明とは仲がよく、一緒にいることが多かった(『増鏡』「春の別れ」)[14]。また、同母妹の瓊子内親王
建武の乱
死後尊良親王と恒良親王を主祭神とする金崎宮(福井県敦賀市)
人物
伝説・創作
御匣殿との恋愛譚詳細は「御匣殿 (西園寺公顕女)」を参照『源氏物語』の美女と瓜二つの御匣殿に見惚れる尊良親王。絵本『新曲』(江戸時代前期)より。明星大学所蔵。
軍記物語『太平記』では、妻の御匣殿との恋愛譚が描かれる。この物語によれば、皇太子位を巡る争いに敗れた尊良は、気落ちして、一種の二次元コンプレックスにかかり[注釈 4]、『源氏物語』の一場面を描いた絵の中の美女に執心するようになった。しかし、絵の美女に瓜二つの御匣殿に偶然出くわし、努力の甲斐あって結ばれたという。後世、幸若舞『新曲』などの派生作品が作られた。 軍記物『太平記』巻18の物語によれば、金ヶ崎の戦いで、新田義顕は自害を覚悟するが、主君の尊良親王には生きて落ち延びることを勧めた[4]。しかし、尊良親王は爽やかに声を立てて笑うと、「主上(後醍醐天皇)は帝都へ還幸なさった時、私を元首の将と、そなたを股肱の臣とさせたのだ。いったい、股肱なくして元首があろうか。こうなっては黄泉から仇に報いようと思う。ところで、(私は宮廷の人であるから武家の作法に疎いが、戦場における)自害とはどのようにするものだったかな」と尋ねた[4]。義顕は溢れる涙を抑えて「このようにするものでございます」と言うと、正式な作法により堂々と自害した[4]。尊良親王は衣を解いて雪のような白肌を露わにすると、義顕の作法に倣って自害し、先に斃れた義顕の骸の頭の上に身を重ねて命を共にしたと描かれる[4]。
自害
系譜
父:後醍醐天皇
母:二条為子
妻:御匣殿(? - 1331以前)[19] - 右大臣西園寺公顕の娘、後醍醐中宮西園寺禧子の腹心
長男[19](近世所伝では守永親王)
妻:大納言典侍(二条為世末女、実の叔母)(? - 1331以降)[19]
長女[19]
脚注[脚注の使い方]