将軍
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479年倭武 鎮東大将軍[10]による一方的な陞爵の可能性。[11]
502年倭武 征東大将軍[12]による一方的な陞爵の可能性[12]

百済王とその臣下が授かった将軍号西暦王名(臣下名)将軍号(仮授)将軍号(南朝除正)備考
372年餘句 鎮東将軍[13]
416年餘映 鎮東将軍[14]
421年餘映 鎮東大将軍[15]
457年餘慶 鎮東大将軍[16]
458年餘紀(王族)行冠軍将軍 冠軍将軍[17]
〃餘昆(王族)行征虜将軍 征虜将軍[17]
〃餘暈(王族)行征虜将軍征虜将軍[17]
〃餘都(王族)行輔国将軍輔国将軍[17]
〃餘乂(王族)行輔国将軍輔国将軍[17]
〃沐衿行龍驤将軍龍驤将軍[18]
〃餘爵(王族)行龍驤将軍龍驤将軍[18]
〃餘流(王族)行寧朔将軍寧朔将軍[18]
〃糜貴行寧朔将軍寧朔将軍[18]
〃于西行建武将軍建武将軍[18]
〃餘婁(王族)行建武将軍建武将軍[5]
502年餘大 征東大将軍[12]による一方的な陞爵の可能性[12]
521年餘隆 寧東大将軍
524年餘明 綏東大将軍
570年餘昌 車騎大将軍

高句麗王とその臣下が授かった将軍号西暦王名(臣下名)将軍号(仮授)将軍号(南朝除正)将軍号(北朝除正)備考
413年高l 征東将軍[19]東晋より。
417年高l 征東大将軍[15]より。
435年高l 征東将軍[20]北魏より。
463年高巨連 車騎大将軍[21]宋より。
492年高羅雲 征東将軍・領護東夷中郎将北魏より。
492年高羅雲征東大将軍より。
502年高羅雲 車騎大将軍[12]梁より。
508年高羅雲 撫軍(東)大将軍梁より。
520年高羅雲 車騎大将軍北魏より、死後追贈。
520年高興安 安東将軍・領護東夷校尉北魏より
520年高興安寧東将軍梁より
534年高宝延 領護東夷校尉北魏より
534年高宝延寧東将軍梁より
550年高平成 驃騎大将軍・領護東夷校尉北斉より
560年高陽成 領護東夷校尉北斉による。
562年高陽成 寧東将軍による。
577年高陽成 大将軍北周による。
581年高陽成 大将軍による。

新羅王とその臣下が授かった将軍号西暦王名(臣下名)将軍号(仮授)将軍号(除正)備考
648年金文王   左武衛将軍による。金春秋の子。
674年金仁文 右驍衛員外大将軍唐による。王弟。
675年金法敏 右驍衛員外大将軍唐による。王。金仁文の兄。
687年金理洪   輔国大将軍・行左豹韜尉大将軍武周による。
702年金興光 輔国大将軍・行左豹韜尉大将軍唐による。
713年金興光 驃騎将軍・特進行左威衛大将軍軍唐による。
 以降の歴代は将軍号を受けず。

渤海王とその臣下が授かった将軍号西暦王名(臣下名)将軍号(仮授)将軍号(除正)備考
692年大祚栄 左驍衛大将軍による。
719年大門芸 左驍衛将軍唐による。王弟。唐に亡命。
737年大欽茂 左驍衛大将軍唐による。
794年大嵩? 右驍衛大将軍唐による。
 大嵩?の時、君主の称号が「郡王」から「国王」へ
と進み、それに伴い付随する官職、爵位、都督職な
ども格上げされ、以降の歴代「国王」は「将軍」号
に変わり文官職を授かるようになった。

「仮授」は、受封側が希望する称号、「除正」は中国側が実際に授与した称号。
近代以降の軍隊における将軍

近代以降の軍隊では、陸軍空軍海兵隊将官の階級としては、准将 (Brigadier General) 、少将 (Major General) 、中将 (Lieutenant General) 、大将 (General) が存在する(英語表記はアメリカ軍の場合)。また将官の上に元帥アメリカ陸軍の場合は General of the Army)が存在する。ただし呼びかけや表記の際の呼称としては、准将から大将、元帥までひっくるめて General が用いられる。この将官をひっくるめた呼称(佐官ではないが詳細な階級が不明な場合)としての General の和訳語として将軍が用いられる。具体的には、XXXX なる名前の将官を、XXXX 将軍 等と表記する。たとえばダグラス・マッカーサーの階級は陸軍元帥 (General of the Army) であり、日本語では「マッカーサー元帥」と呼称される事が多いが、英語の呼称では General MacArthur であり、これをそのまま訳した場合は「マッカーサー将軍」となる。アメリカのテレビ作品の邦題として「パットン将軍」「将軍アイク」なる言葉が使われている(ただしこれはアメリカ軍の場合であり、元帥に関してはヨーロッパ各国では Marshall の語を使っている国も多い。そういった国では大将から准将までをひっくるめた呼称が将軍であり、元帥は将軍とは別個の物として扱われる)。詳細は「軍隊の階級」を参照

海軍における将官の呼称は Admiral であり、これの和訳語は「提督」であるが、日本では海軍の場合も准将・少将・中将・大将と陸軍などと同じ階級を用いるため、海軍における将官の呼称としても「将軍」を用いる場合がある。例えば上村彦之丞(日本海軍の軍人・最終階級は海軍大将)の渾名は「船乗り将軍」である。
日本
古代

日本では日本書紀の記述する時代から使われている。中国の南北朝時代の史書には、倭の五王が南朝の皇帝から安東大将軍などの将軍号を受けたり、自称したという記録がある。なお、将軍を和語で訓ずる場合は「いくさのかみ」である。

日本の律令制では、軍防令24条に将軍の規定がある。それによれば、将帥が出征するとき兵一万人以上なら将軍一人、副将軍二人を置く。また、三軍ごとに大将軍一人を置く。しかし実際の任命はこの兵数には基づかず、特に大将軍の下に複数の将軍を置くという形態は一度もとられなかった。将軍は原則として臨時任命であり、任命された事態は、東の蝦夷に対する遠征、南西の隼人外国に対する遠征、天皇の行幸の護衛、都に来た外国使節や蝦夷・隼人の迎接の四つである。各将軍はそれぞれ異なる称号を冠し、単なる「将軍」だけの官名はなかった。例示すれば、対蝦夷戦では陸奥鎮東将軍・征越後蝦夷将軍・征狄将軍征東将軍征夷将軍など、対隼人戦では討卑賊将軍・征隼人持節度大将軍、外国には征新羅大将軍など、行幸と迎接では左将軍右将軍・御前騎兵将軍・御後騎兵将軍・騎兵大将軍などである。唯一常設されたのが鎮守将軍(後に鎮守府将軍)で、蝦夷に対する防備についた。

常置された武官には近衛府兵衛府があり、特に顕官である近衛大将は「将軍」と呼ばれた[22]唐名には「親衛大将軍・羽林大将軍・千牛大将軍・唐牙大将軍」がある。また兵衛府の次官である兵衛佐の唐名も「武衛将軍」である[22]
中世

東国に武家政権を築いた源頼朝は、右近衛大将を辞任してから後、「大将軍」の地位を望んだ[22]。頼朝の要請を受けた朝廷は先例を調査し、1192年征夷大将軍に任じた。


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