将軍
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唐名には「親衛大将軍・羽林大将軍・千牛大将軍・唐牙大将軍」がある。また兵衛府の次官である兵衛佐の唐名も「武衛将軍」である[22]
中世

東国に武家政権を築いた源頼朝は、右近衛大将を辞任してから後、「大将軍」の地位を望んだ[22]。頼朝の要請を受けた朝廷は先例を調査し、1192年征夷大将軍に任じた。頼朝の継承者である鎌倉幕府将軍は代々征夷大将軍の職にあり、他の将軍職は任じられなかったため、将軍は征夷大将軍の略称として通用されるようになった。将軍は武士の頂点にある存在として認識されるようになり、御所と尊称されるようになっていった。

南北朝時代には鎮守府将軍が復活する。南朝方の北畠親房はわが子、北畠顕家が陸奥守・鎮守府将軍に任ぜられるにあたり、三位以上の将軍は鎮守大将軍とするように奏請。これにより顕家は鎮守大将軍として記録されている。しかし南朝方の勢力減退に伴い、室町時代においては征夷大将軍である室町幕府将軍の存在のみとなった。この頃から将軍を指して公方と呼称されるようになり、鎌倉公方などの呼称も派生している。
近世江戸幕府初代将軍・徳川家康

江戸時代における将軍は征夷大将軍である江戸幕府将軍のみであった。外交呼称として対外的に「日本国王」「日本国大君」を称した場合もある。

しかし、1867年慶応3年)に江戸幕府の15代将軍徳川慶喜大政奉還を行い、王政復古の大号令により征夷大将軍の職を廃止された。その後、仁和寺宮嘉彰法親王征討大将軍に任ぜられたが、短期間で廃止されている。西欧語に借用された shogun は、特に日本の征夷大将軍を指す言葉であり、江戸幕府英語: Tokugawa shogunateと呼称される。
近現代

明治時代になって近代軍制が敷かれると、士官は将佐尉の三等に大別され、その最上位の将には大将中将少将の三階級が置かれた。この職にあった軍人はときに将軍とも呼称された。三浦梧楼を指す「観樹将軍」、林銑十郎を指す「越境将軍」などがある。また外国の当該階級にある軍人に対しても「将軍」の呼称を使う例が現れた。自衛隊においては幕僚長たる将将補の将官が存在するが、通常将軍とは呼称されない。
前近代中国における将軍

代に於ける将軍は軍の指揮官として必要な時に皇帝により置かれたもので、最上級の大将軍三公にも匹敵する重職であった。その下に驃騎将軍衛将軍車騎将軍があり、その下に上将軍・伏波将軍など臨時に任命される雑号将軍がある。後に戦乱などによって将軍号が増加し、南朝梁武帝が将軍号を整理した際には12班で合わせて125号に分類整理されたという。の時代には、官職としての将軍の他に武散官の称号としての将軍も並存した。北宋では、武散官の称号としてのみ残され、それも神宗の時代に廃されて「大夫」「郎」と改称された。の時代に武散官の称号として復活し、続くの時代には総兵官及びその麾下である軍指揮官の官職名としても復活した。の時代には臨時の官職として大将軍が設置されたことがあるものの、常設官においては総兵官としての将軍の称号は再び廃されて、副将以下の軍指揮官及び駐防八旗兵の司令官の称号として残り近代に至る。
国家指導者の敬称としての将軍

国際的には、軍事政権や一党独裁国家において最高権力者が、政権掌握当時の階級を意図的に名乗ったり国民の間に流布したりしている例がある。あるいは政権獲得後に軍人としてのキャリアの有無にかかわらず将官の階級を自らに与えるケースもある。

例をあげるとパナママヌエル・ノリエガイラクサダム・フセイン北朝鮮金日成金正日父子なども「将軍」と呼ばれていた。存命人物では北朝鮮の金正恩がそう呼ばれている。このうちフセインと金正日・金正恩父子は職業軍人としての経歴を持たない。金日成は、朝鮮人民革命軍の司令官として抗日パルチザン活動を繰り広げたが、階級は無かった。また、金日成の階級は朝鮮民主主義人民共和国大元帥、金正日と金正恩は共和国元帥(金正日は死後に大元帥追贈)であり、将官ではなく軍事的指導者の意味で将軍と称されていた。

金正日は「将軍様」(???、チャングンニム)とも呼ばれるが、朝鮮半島(北朝鮮・韓国)では上司や上位者に対しては肩書きの下に「様」(?、ニム)をつける習慣があり、朝鮮語では社長様(サジャンニム)、部長様(ブジャンニム)、先生様(ソンセンニム)などの言葉は一般的に使用されている。それ故金正日もまた、その延長線上で「将軍様」と呼ばれているだけであり、日本語でそのまま将軍様とするのは適訳ではないという意見もある。
脚注^ 河内 2018, p. 63
^ a b 河内 2018
^ 河内 2018, p. 58-59
^ 河内 2018, p. 73-79
^ a b c 河内 2018, p. 82-84
^ 河内 2018, p. 93
^ 河内 2018, p. 103-106
^ 河内 2018, p. 114-119
^ 河内 2018, p. 127-135
^ 河内 2018, p. 210-211
^ 河内 2018, p. 210-215
^ a b c d e 河内 2018, p. 211
^ 河内 2018, p. 10
^ 河内 2018, p. 47
^ a b 河内 2018, p. 48
^ 河内 2018, p. 79-80
^ a b c d e 河内 2018, p. 80
^ a b c d e 河内 2018, p. 79-80
^ 河内 2018, p. 33
^ 河内 2018, p. 87
^ 河内 2018, p. 122
^ a b c 杉橋隆夫『鎌倉右大将家と征夷大将軍・補考』立命館大学〈立命館文學 624〉、2012年1月。https://cir.nii.ac.jp/crid/1570572702946809600。 

参考文献

河内春人『倭の五王 - 王位継承と五世紀の東アジア』中央公論新社中公新書〉、2018年1月19日。


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