将軍
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492年高羅雲征東大将軍より。
502年高羅雲 車騎大将軍[12]梁より。
508年高羅雲 撫軍(東)大将軍梁より。
520年高羅雲 車騎大将軍北魏より、死後追贈。
520年高興安 安東将軍・領護東夷校尉北魏より
520年高興安寧東将軍梁より
534年高宝延 領護東夷校尉北魏より
534年高宝延寧東将軍梁より
550年高平成 驃騎大将軍・領護東夷校尉北斉より
560年高陽成 領護東夷校尉北斉による。
562年高陽成 寧東将軍による。
577年高陽成 大将軍北周による。
581年高陽成 大将軍による。

新羅王とその臣下が授かった将軍号西暦王名(臣下名)将軍号(仮授)将軍号(除正)備考
648年金文王   左武衛将軍による。金春秋の子。
674年金仁文 右驍衛員外大将軍唐による。王弟。
675年金法敏 右驍衛員外大将軍唐による。王。金仁文の兄。
687年金理洪   輔国大将軍・行左豹韜尉大将軍武周による。
702年金興光 輔国大将軍・行左豹韜尉大将軍唐による。
713年金興光 驃騎将軍・特進行左威衛大将軍軍唐による。
 以降の歴代は将軍号を受けず。

渤海王とその臣下が授かった将軍号西暦王名(臣下名)将軍号(仮授)将軍号(除正)備考
692年大祚栄 左驍衛大将軍による。
719年大門芸 左驍衛将軍唐による。王弟。唐に亡命。
737年大欽茂 左驍衛大将軍唐による。
794年大嵩? 右驍衛大将軍唐による。
 大嵩?の時、君主の称号が「郡王」から「国王」へ
と進み、それに伴い付随する官職、爵位、都督職な
ども格上げされ、以降の歴代「国王」は「将軍」号
に変わり文官職を授かるようになった。

「仮授」は、受封側が希望する称号、「除正」は中国側が実際に授与した称号。
近代以降の軍隊における将軍

近代以降の軍隊では、陸軍空軍海兵隊将官の階級としては、准将 (Brigadier General) 、少将 (Major General) 、中将 (Lieutenant General) 、大将 (General) が存在する(英語表記はアメリカ軍の場合)。また将官の上に元帥アメリカ陸軍の場合は General of the Army)が存在する。ただし呼びかけや表記の際の呼称としては、准将から大将、元帥までひっくるめて General が用いられる。この将官をひっくるめた呼称(佐官ではないが詳細な階級が不明な場合)としての General の和訳語として将軍が用いられる。具体的には、XXXX なる名前の将官を、XXXX 将軍 等と表記する。たとえばダグラス・マッカーサーの階級は陸軍元帥 (General of the Army) であり、日本語では「マッカーサー元帥」と呼称される事が多いが、英語の呼称では General MacArthur であり、これをそのまま訳した場合は「マッカーサー将軍」となる。アメリカのテレビ作品の邦題として「パットン将軍」「将軍アイク」なる言葉が使われている(ただしこれはアメリカ軍の場合であり、元帥に関してはヨーロッパ各国では Marshall の語を使っている国も多い。そういった国では大将から准将までをひっくるめた呼称が将軍であり、元帥は将軍とは別個の物として扱われる)。詳細は「軍隊の階級」を参照

海軍における将官の呼称は Admiral であり、これの和訳語は「提督」であるが、日本では海軍の場合も准将・少将・中将・大将と陸軍などと同じ階級を用いるため、海軍における将官の呼称としても「将軍」を用いる場合がある。例えば上村彦之丞(日本海軍の軍人・最終階級は海軍大将)の渾名は「船乗り将軍」である。
日本
古代

日本では日本書紀の記述する時代から使われている。中国の南北朝時代の史書には、倭の五王が南朝の皇帝から安東大将軍などの将軍号を受けたり、自称したという記録がある。なお、将軍を和語で訓ずる場合は「いくさのかみ」である。

日本の律令制では、軍防令24条に将軍の規定がある。それによれば、将帥が出征するとき兵一万人以上なら将軍一人、副将軍二人を置く。また、三軍ごとに大将軍一人を置く。しかし実際の任命はこの兵数には基づかず、特に大将軍の下に複数の将軍を置くという形態は一度もとられなかった。将軍は原則として臨時任命であり、任命された事態は、東の蝦夷に対する遠征、南西の隼人外国に対する遠征、天皇の行幸の護衛、都に来た外国使節や蝦夷・隼人の迎接の四つである。各将軍はそれぞれ異なる称号を冠し、単なる「将軍」だけの官名はなかった。例示すれば、対蝦夷戦では陸奥鎮東将軍・征越後蝦夷将軍・征狄将軍征東将軍征夷将軍など、対隼人戦では討卑賊将軍・征隼人持節度大将軍、外国には征新羅大将軍など、行幸と迎接では左将軍右将軍・御前騎兵将軍・御後騎兵将軍・騎兵大将軍などである。唯一常設されたのが鎮守将軍(後に鎮守府将軍)で、蝦夷に対する防備についた。

常置された武官には近衛府兵衛府があり、特に顕官である近衛大将は「将軍」と呼ばれた[22]唐名には「親衛大将軍・羽林大将軍・千牛大将軍・唐牙大将軍」がある。また兵衛府の次官である兵衛佐の唐名も「武衛将軍」である[22]
中世

東国に武家政権を築いた源頼朝は、右近衛大将を辞任してから後、「大将軍」の地位を望んだ[22]。頼朝の要請を受けた朝廷は先例を調査し、1192年征夷大将軍に任じた。頼朝の継承者である鎌倉幕府将軍は代々征夷大将軍の職にあり、他の将軍職は任じられなかったため、将軍は征夷大将軍の略称として通用されるようになった。将軍は武士の頂点にある存在として認識されるようになり、御所と尊称されるようになっていった。

南北朝時代には鎮守府将軍が復活する。南朝方の北畠親房はわが子、北畠顕家が陸奥守・鎮守府将軍に任ぜられるにあたり、三位以上の将軍は鎮守大将軍とするように奏請。これにより顕家は鎮守大将軍として記録されている。しかし南朝方の勢力減退に伴い、室町時代においては征夷大将軍である室町幕府将軍の存在のみとなった。この頃から将軍を指して公方と呼称されるようになり、鎌倉公方などの呼称も派生している。
近世江戸幕府初代将軍・徳川家康

江戸時代における将軍は征夷大将軍である江戸幕府将軍のみであった。外交呼称として対外的に「日本国王」「日本国大君」を称した場合もある。

しかし、1867年慶応3年)に江戸幕府の15代将軍徳川慶喜大政奉還を行い、王政復古の大号令により征夷大将軍の職を廃止された。その後、仁和寺宮嘉彰法親王征討大将軍に任ぜられたが、短期間で廃止されている。西欧語に借用された shogun は、特に日本の征夷大将軍を指す言葉であり、江戸幕府英語: Tokugawa shogunateと呼称される。
近現代

明治時代になって近代軍制が敷かれると、士官は将佐尉の三等に大別され、その最上位の将には大将中将少将の三階級が置かれた。この職にあった軍人はときに将軍とも呼称された。三浦梧楼を指す「観樹将軍」、林銑十郎を指す「越境将軍」などがある。また外国の当該階級にある軍人に対しても「将軍」の呼称を使う例が現れた。自衛隊においては幕僚長たる将将補の将官が存在するが、通常将軍とは呼称されない。
前近代中国における将軍

代に於ける将軍は軍の指揮官として必要な時に皇帝により置かれたもので、最上級の大将軍三公にも匹敵する重職であった。その下に驃騎将軍衛将軍車騎将軍があり、その下に上将軍・伏波将軍など臨時に任命される雑号将軍がある。後に戦乱などによって将軍号が増加し、南朝梁武帝が将軍号を整理した際には12班で合わせて125号に分類整理されたという。の時代には、官職としての将軍の他に武散官の称号としての将軍も並存した。北宋では、武散官の称号としてのみ残され、それも神宗の時代に廃されて「大夫」「郎」と改称された。


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