封建領主
[Wikipedia|▼Menu]
直営地とは、中世ヨーロッパにおいて、領地のなかで封建領主が直接経営を管理する土地のことである。農民の労働によってまかなわれ、収穫は領主の収入となった。のちに分割して農民の保有地に組み入れられることとなった。
ヨーロッパ封建領主の没落十字軍のコンスタンティノープル進軍クレシーの戦い(百年戦争)1621年ボヘミアの反逆者に対する処刑とマスケット銃をかつぐ兵士(三十年戦争)

ヨーロッパにおける封建領主、とくに諸侯騎士の没落は、徐々に進行したものではあるが、それにはいくつかの画期があった。

その第一は、11世紀末から13世紀後半にかけての十字軍の東征である。十字軍の資金調達の必要から教皇や皇帝、国王が徴税制度を発達させる一方、諸侯や騎士の武器や遠征費用は基本的には自弁であり、また、領地をしばしば留守にすることも余儀なくされた。遠征先の中近東でも皇帝、国王の指揮下に入った。これは、それまで確保していた諸侯、騎士の地位を下落させるものであった。また、これに前後して貨幣経済が進展し、封建領主は領主直営地を農民保有地にかえ、生産物や貨幣地代を徴収するようになった。

第二は、14世紀から15世紀にかけての英仏間の百年戦争である。これは、現在のイギリスとフランスの国境線を画定した戦争であり、両国の国家体系や国民の帰属意識は、この戦争に先んじて存在していたというよりは、この長い戦争を通じてようやく形成されたといってよい[2]。その意味で英仏が中央集権的な国家となって生まれかわる一方で、諸侯、騎士の没落を促す戦争であった。

この戦争ののち、イングランドでは「薔薇戦争」が起こって諸侯はさらに疲弊し没落する一方で、王権は著しく強化されテューダー朝による絶対君主制への道が開かれた。フランスでも、こののち宗教対立による内乱(ユグノー戦争)が発生したが、祖国が統一されたことで王権が伸張し、のちのブルボン朝による絶対君主制の基盤となった。

14世紀以降の戦乱の続発とともに、ペスト(黒死病)の流行もあって、当該期のヨーロッパの人口は減少したため、農民の地位は相対的に向上した。農民保有地の広がりもあいまって、農奴身分から解放された独立自営農民もあらわれはじめた。

第三には、上述した火器の使用があげられる。火縄銃のはじまりは15世紀末のヨーロッパで開発されたものと考えられるが、これは従来の戦法や戦争の様相を一変させてしまった。16世紀以降の戦争、なかでもドイツがその主たる戦場となった三十年戦争においてはアルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインのような戦争請負人が傭兵を集めて戦った。もはや、戦士としての騎士は必要とされなくなったのである。

第四は、大航海時代以降の世界の一体化にともなうアメリカ西ヨーロッパへの大量流入による急激な物価上昇(価格革命)である。これにより、16世紀の西ヨーロッパは好況に沸き、商工業のいっそうの発展がもたらされたが、反面、固定した地代収入に依存する諸侯・騎士などの封建領主層はいっそう没落した。これに対し、東ヨーロッパでは、西欧の拡大する穀物需要に応えるために、かえって農奴制が強化され農場領主制と呼ばれる経営形態が進展した。
関連項目

農奴制

荘園#ヨーロッパの荘園

ベリー公のいとも豪華なる時祷書(中世の領主の館や農作業、年中行事が描かれている)

騎士修道会

ドイツ騎士団

テンプル騎士団

聖ヨハネ騎士団

聖ラザロ騎士団

日本における封建領主

日本の歴史における封建領主概念は、実のところ一定していない。これは日本史学における封建制の位置づけが結論をみていないことと密接に関係している。さらに、日本の中世史学、近世史学いずれにおいても、1980年代 - 1990年代以降、封建制概念が研究対象から大きく後退しており、それに伴って、日本史上に封建領主という概念を置く議論もほとんど見られなくなっている。以下、封建領主概念をめぐる議論を概観していく。
4つの封建制概念

日本の歴史における封建制概念は、江戸時代以降の学問史的変遷を経て、主に次の4つの局面を示すに至った。
古代中国に見られた儒学的封建制概念

8世紀後半フランク王国に見られたレーン制との類似性に着目した法制史的封建制概念

中世ヨーロッパ(9世紀 - 13世紀)に見られたフューダリズム (Feudalismus) との近似性に着目した社会史的封建制制度

上記フューダリズムを史的唯物論の立場から農奴制として理解する農奴制的封建制概念

最初の儒学的封建制概念は、江戸時代中期の荻生徂徠太宰春台にその萌芽が見られ、江戸後期に至り頼山陽らにより確立された。この概念理解は、古代中国に見られた郡県制と封建制を日本の歴史の中にも見出そうとする試みであり、律令国家によって完成した郡県制が、平安時代荘園の増加と武士の発生によって崩壊し、鎌倉幕府の登場をもって封建制の開始とするものであった。これにより、武家政権の時代が封建時代という観念が生じ、武士領主を封建領主として認識する素地もまたここに生まれたのであり、この観念は後の封建制議論にも多かれ少なかれ影響を及ぼしている。

明治に入り、日本にも西欧史研究が本格的に導入されると、西欧のフューダリズムが封建と翻訳されるようになった。これは脱亜入欧の風潮を背景とし、無意識のうちに西欧史と日本史との共通点を見出そうとしたことによるものと考えられている。こうした状況のもと明治30年代になると、西欧史に見るレーン制に酷似した制度が日本史上にも見出せるとする主張が中田薫福田徳三三浦周行らから相次いで唱えられ、法制史的封建制概念が登場した。もっともこのレーン制は8世紀後半のフランク王国とその影響下にのみ見られる限定的な歴史概念ではあったが、中田によると、欧州封建制(レーン制)は土地恩給制と家人制との結合によって成立しているのに対し、日本においても、土地恩給制 = 荘園制と家人制 = 武士主従制の結合によって封建制が成立しており、平安期中葉に結合が始まり室町期中葉に完成した、としている[3]マックス・ヴェーバーの日本封建制の理解もこれと同様のものだが[4]、ここで説かれる封建制概念は支配階層内部の関係を議論の対象とするものであり、支配階層が持つ封建領主としての面については家産制・荘園制の問題として論じられた。

社会史的封建概念は、9世紀から13世紀までの中世ヨーロッパに広く見られたフューダリズムとの比較の中から生まれたもので、朝河貫一エドウィン・O・ライシャワーらにより確立された。フューダリズムは、国王を頂点とする身分制度、騎士が支配階級として生産者階級である農奴を支配、政治権力や土地への権利は分権的かつ重層的に混在、公権と私権の混交、などの社会的特徴を持っており、世界史的に見ても特殊な社会体制と言えるが、朝河らはヨーロッパの中世的土地所有と中世日本の職(しき)との比較研究などを通じて、フューダリズムが日本の中世社会と強い近似性を示しているとした[5]

史的唯物論の影響下で生まれた農奴制的封建制概念は、昭和初期ごろ野呂栄太郎らに始まった。史的唯物論の歴史発展段階理論によれば、近代ブルジョア的生産様式(資本制)に先立つ歴史段階として封建的生産様式(農奴制)が存在し、そこでは封建領主が土地を所有し農奴を支配していた、とする規定がなされていた。第二次世界大戦後には史的唯物論が歴史学界の主潮流の一つとなったため、中世・近世社会が農奴制的封建制と言えるかどうかが中世史・近世史研究の中心的位置を占めるに至った。農奴制的封建制概念では、封建領主と農奴との関係が理論的根幹をなしており、他の封建制概念よりも封建領主を重視することになった。戦後の封建領主論は、中世・近世ともに農奴制封建制概念の強い影響を受けて展開した。
中世日本の封建領主

中世封建制をめぐる議論は大きく3つの流れに整理できる。石母田正の「領主制理論」、安良城盛昭の荘園制解体=封建制成立説、戸田芳実の荘園制=封建制説である。

石母田は律令制古代社会をアジア的共同体関係と家父長制的奴隷制の2概念で規定し、家父長制下にある奴隷が農奴へ成長することで封建制社会へ移行したと考えた。この移行は長期にわたり、10世紀の農村における領主-農奴関係の登場をその萌芽とし、12世紀末の鎌倉幕府成立、14世紀の南北朝争乱などの段階を踏んで、守護大名による地域的封建制の確立をもって、封建制の完成に至ったとしている。また石母田は荘園制を古代的要素と規定したため、封建制と荘園制の相互の位置づけが曖昧となった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:37 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef