対馬国
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防人の制は、3年交代で東国から派遣された兵士2,000余人によって成り立っていたが、737年(天平9年)にはこれを止め、九州本土の筑紫国人を壱岐・対馬に派遣することに改めたが再び東国防人の制が復活し、757年天平宝字元年)にはそれも廃して西海道のうち7国(筑前国筑後国肥前国肥後国豊前国豊後国日向国)の兵1,000人をもってこれに代えることとした[4]741年天平13年)、「鎮護国家」をめざした聖武天皇の国分寺建立の詔により対馬にも府中厳原の地に島分寺が建立されたが、講師はいったん廃された。

なお、759年(天平宝字3年)に藤原仲麻呂が新羅征討を準備したとき、東国の船団編成に肥前国2,400人、対馬島200人の水手(かこ)が含まれていたという[4]

『新撰亀相記』によれば、上県郡に直氏と卜部氏、下県郡に直氏と卜部氏と、夜良直氏がおり、上下の直氏を国造としている。
平安時代

平安時代に入って桓武天皇の時代には防人制は広く廃止され、軍団制に改められたが、壱岐・対馬の両国に関しては例外として防人を残した[4]。度々起こった新羅の入寇では、813年弘仁4年)の弘仁の韓寇は対馬を襲撃したものではなかったが、入寇ののち対馬には新羅語の通訳を置いた。841年承和8年)には、大宰府の属官(曹)104人が対馬の防人にあてられた。

律令制の弛緩は対馬国においても例外ではなかった。『日本文徳天皇実録天安元年(857年)六月条に対馬国守として立野正岑の名がみえるが、同年に上県郡主擬主帳卜部川知麻呂、下県郡擬大領直浦主らが率いる300余の島民が国守立野正岑の館を襲撃し、国司や従者の榎本成岑を惨殺した事件が起こっている[5]

870年貞観12年)には対馬に選士50人が配され、874年(貞観16年)には新羅人が対馬に漂着したものの帰国させられた。894年寛平6年)には新羅の賊船大小100隻、約2,500人が佐須浦(さすうら)に襲来したが国守文屋善友が撃退している(寛平の韓寇)。

936年承平6年)、朝鮮半島を高麗が統一し、対馬に高麗の南原府の咸吉兢が対馬に漂着したという。また、10月15日には金海府の李純達が大宰府に到着の報が届いたが国交成立に至らなかったとされる[6]

1019年寛仁3年)、正体不明の賊船50隻が対馬を襲撃した。記録されているだけで殺害された者365名、拉致された者1,289名で、有名な対馬銀鉱も焼損した。これは、奴隷にすることを目的に日本人を略奪したものであり、被害は対馬のみならず壱岐・北九州におよんだ。のちに賊の正体が刀伊(女真族)であることが判明し、この事件は「刀伊の入寇」と呼ばれるようになる。女真族は、このとき対馬の判官代長岑諸近とその一族を捕虜にしており、諸近は1度は逃亡できたものの妻子をたずねて高麗にわたり、日本人捕虜の悲惨な境遇を見聞して帰国したという記録がのこっている[7]

対馬国は、古代後半にあっては阿比留氏などの在庁官人による現地支配がなされていた。

1094年嘉保2年)5月25日前大宰権帥正二位中納言藤原伊房が前対馬守藤原敦輔と謀り、国禁私貿易をおこない発覚。伊房は従二位に降格の上、敦輔は従五位下の位階を?奪された[8]

1101年康和3年)7月7日、対馬守源義親が現地で大宰府の命をきかず、官物を横領し、人民を苦しめるとの報が太宰権帥大江匡房より朝廷にもたらされ、義親追討の官符が発せられる。源義親は天下第一武勇の士として名高い河内源氏の棟梁・八幡太郎義家の嫡男である。義親の追討以降、河内源氏は勢力が衰え、義親に追討に功のあった平氏が擡頭する契機となった[9]
中世

1274年文永11年)と1281年弘安4年)の2度に渡って元寇の襲来を受け、宗助国は迎撃したが戦死。一時に占領された。その際、住民の男性は虐殺され、女性は手に穴を開けられ紐を通して?がれ連れ去られたと史書には記されている。

倭寇の主要根拠地の1つとされ、この倭寇討伐を目的として李氏朝鮮の軍が1419年(応永26年)に大規模な侵攻を行い、宗氏との1ヶ月にわたる戦闘で大敗を喫し撤退した(応永の外寇)。その後、宗氏は嘉吉3年(1443年)に朝鮮と嘉吉条約を結んで、以後日朝間の窓口となった。

しかし、文明2年(1470年)、朝鮮国王 世祖が対馬守護 宗氏に使節を派遣し、日本の密航者の取り締まりを求めた[10]1509年永正6年)4月、朝鮮は対馬島主・宗材盛に在留期限を超えた恒久倭の帰国を求める使節の派遣を予定していたが、材盛の急逝で使節派遣を延期する[11]

翌1510年(永正7年)、朝鮮で現地在住の対馬の民などにより三浦の乱が発生。宗氏は日朝貿易への影響力拡大を狙い救援軍を派遣するも鎮圧され、在留日本人は追放。対馬と朝鮮の関係も1512年(永正9年)まで途絶する。

また、この頃少弐氏が大内氏によって大宰府を追われると、宗貞盛は九州に出兵して大内氏と戦った。しかし、少弐氏が滅亡したので対馬に戻った。
近世以降


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