寛永
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注釈^ 家光の将軍就任に伴う代始改元説は山田忠雄[1]所功[2]が唱え、佐藤均はあくまでも甲子革令の復活を意図したものとする[3]。久保貴子は江戸幕府が「朝儀復興」を掲げている以上、甲子革令の復活を意図したものと見るべきとした上で、代始改元については江戸幕府の内部でそうした思惑はあったとしても統一した見解になっていたかまでは不明としている[4]
^ 寛永から正保への改元が行われたのはグレゴリオ暦1645年1月13日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。正保元年は西暦1645年1月13日から同1月27日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、寛永21年=正保元年=西暦1644年、正保2年=西暦1645年となって実際とはずれが生じる。

出典^ 山田忠雄「近世の元号雑感」『歴史評論』349、1979年の説。
^ 所功『年号の歴史』雄山閣、1988年の説。
^ 佐藤均「江戸時代の辛酉改元・甲子改元について」『国士舘大学教養論集』26、1988年の説。
^ 久保貴子『近世の朝廷運営』岩田書院、1998年(P61.)の説。
^ 久保貴子『近世の朝廷運営』岩田書院、1998年、P62.

関連項目

寛永寺

寛永通宝

寛永文化

寛永の遺老

寛永諸家系図伝

寛永古活字版源氏物語

武州豊嶋郡江戸庄図(寛永江戸図)










日本の元号
注1:前の数字は番号。南北朝時代の「南」は南朝、「北」は北朝の元号を指す。慣例に従い南朝を正統とする。
注2:後の数字は元年と末年。源氏政権の「寿永」は元年でなく使用開始年を記し、「正平」は南北統一の年と再分裂の年、「観応」は復活の年、「明徳」は統一の年も記す。
注3:月日を含む換算では赤背景の西暦に1を加算する。
飛鳥時代

1 大化 645 - 650

2 白雉 650 - 654

-

3 朱鳥 686 - 686

-

4 大宝 701 - 704

5 慶雲 704 - 708

6 和銅 708 -

奈良時代

和銅 - 715

7 霊亀 715 - 717

8 養老 717 - 724

9 神亀 724 - 729

10 天平 729 - 749

四字元号

11 天平感宝 749

12 天平勝宝 749 - 757

13 天平宝字 757 - 765

14 天平神護 765 - 767

15 神護景雲 767 - 770



16 宝亀 770 - 781

17 天応 781 - 782

18 延暦 782 -

平安時代

延暦 - 806

19 大同 806 - 810

20 弘仁 810 - 824

21 天長 824 - 834

22 承和 834 - 848

23 嘉祥 848 - 851

24 仁寿 851 - 854

25 斉衡 854 - 857

26 天安 857 - 859

27 貞観 859 - 877

28 元慶 877 - 885

29 仁和 885 - 889

30 寛平 889 - 898

31 昌泰 898 - 901

32 延喜 901 - 923


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