寛永寺
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徳川家の菩提寺は2代将軍秀忠の眠る、芝の増上寺(浄土宗寺院)だったのである。しかし、3代将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した。その後、4代家綱、5代綱吉の廟は上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となった。当然、増上寺側からは反発があったが、6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続いた[注 2]。また、吉宗以降は幕府財政倹約のため、寛永寺の門の数が削減されている。
輪王寺宮

寛永寺では第三代以降幕末まで歴代の住職に法親王が就任した[2]

寛永20年(1643年)、天海が没した後、弟子の毘沙門堂門跡・公海が2世貫主として入山。その後を継いで3世貫主となったのは、後水尾天皇第3皇子の守澄法親王である。法親王は承応3年(1654年)、寛永寺貫主となり、日光山主を兼ね、翌明暦元年(1655年)には天台座主を兼ねることとなった。

以後、幕末の15世公現入道親王(北白川宮能久親王)に至るまで、皇子または天皇の猶子が寛永寺の貫主を務めた。貫主は「輪王寺宮」と尊称され、水戸尾張紀州徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威をもっていた。
三山管領宮

歴代輪王寺宮は、一部例外もあるが、原則として天台座主を兼務し、東叡山・日光山・比叡山の3山を管掌することから「三山管領宮」とも呼ばれた[2]東国皇族を常駐させることで、西国皇室を戴いて倒幕勢力が決起した際には、関東では輪王寺宮を「天皇」として擁立し、気学における四神相応の土地相とし、徳川家を一方的な「朝敵」とさせない為の安全装置だったという説もある(「奥羽越列藩同盟」、「北白川宮能久親王(東武皇帝)」参照)。
歴代寛永寺貫首(輪王寺宮)
天海

公海

守澄法親王(第179世天台座主。輪王寺宮門跡の始まり。後水尾天皇第3皇子)

天真法親王(後西天皇第5皇子)

公弁法親王(第188、190世天台座主。後西天皇第6皇子。赤穂事件で将軍徳川綱吉の諮問を受ける)

公寛法親王(第196、199世天台座主。東山天皇第3皇子)

公遵法親王(第203、206世天台座主。中御門天皇第2皇子)

公啓法親王(第208世天台座主。閑院宮直仁親王第2王子)

公遵法親王 (再任)

公延法親王(第213世天台座主。閑院宮典仁親王第4王子)

公澄法親王(第216世天台座主。伏見宮邦頼親王第2王子)

舜仁入道親王(第226世天台座主。有栖川宮織仁親王第4王子。)

公紹法親王(有栖川宮韶仁親王第3王子)

慈性入道親王(第230世天台座主。有栖川宮韶仁親王第2王子)

公現入道親王(のち還俗して北白川宮能久親王

衰退と復興上野戦争後、焼け野原になった境内

江戸時代後期、最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、子院は36か院に及んだ(現存するのは19か院)。現在の上野公園のほぼ全域が寺の旧境内であり、最盛期には、更にその2倍の面積の寺地を有していた。例えば、現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところである。

江戸時代には飛鳥山と並ぶ桜の名所として知られており、庶民の行楽地であった[2][4]

しかし、上野の山は、幕末の慶応4年(1868年)、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となり、根本中堂をはじめ主要な堂宇を焼失し、残された建物は五重塔、清水堂、大仏殿などだけとなった[2]明治維新後、寺領は没収され、輪王寺宮は還俗、明治6年(1873年)には旧境内地が公園用地に指定されるなどして、廃寺状態に追い込まれるが、明治8年(1875年)に再発足。江戸時代の境内地だった場所は、上野公園や上野駅の用地となり大きく変貌をとげた。明治12年(1879年)子院の1つの大慈院があった場所に川越喜多院(天海が住していた寺)の本地堂を移築して本堂(中堂)とし、復興の途についた[2][3]

太平洋戦争中の東京大空襲では、当時残っていた徳川家霊廟の建物の大部分が焼失した。2度の戦災をまぬがれたいくつかの古建築は、上野公園内の各所に点在している。
伽藍旧本坊表門(重要文化財)不忍池と弁天堂
現存する伽藍

本堂(根本中堂) -
東京芸術大学音楽学部の裏手にある。上野公園内の清水堂、弁天堂などのにぎわいに比し、本堂周辺は訪れる人もまばらである。現在の堂は、寛永寺の子院・大慈院のあった敷地に、明治12年1879年)、川越喜多院の本地堂を移築したもので、寛永寺本来の建物ではない。内陣には厨子内に秘仏本尊薬師三尊像を安置する(堂内は非公開)。

書院 - 本堂裏手にあり、徳川慶喜が水戸退去の前に、2か月ほど蟄居していた部屋(葵の間、あるいは蟄居の間)が保存されている(非公開)。

旧本坊表門(北緯35度43分00秒 東経139度46分39.9秒 / 北緯35.71667度 東経139.777750度 / 35.71667; 139.777750 (寛永寺旧本坊表門)) - 重要文化財。通称黒門。東京国立博物館東側の輪王寺にある。寛永年間の建造物で、もとは博物館正門の位置にあった。

清水観音堂(北緯35度42分45.4秒 東経139度46分24.8秒 / 北緯35.712611度 東経139.773556度 / 35.712611; 139.773556 (清水観音堂)) - 重要文化財。上野公園内、西郷隆盛銅像の近くにあり、千手観音を祀る。寛永8年(1631年)の建築で、当初は摺鉢山古墳の位置にあったが、中堂建立に伴い現在地に移築された。規模は小さいとはいえ、京都の清水寺本堂と同様の懸造建築である。江戸三十三箇所観音霊場の第6番札所。

弁天堂(北緯35度42分43.6秒 東経139度46分16秒 / 北緯35.712111度 東経139.77111度 / 35.712111; 139.77111 (不忍池辯天堂)) - 上野公園南側にある不忍池弁天島(中之島)に、天海竹生島宝厳寺弁才天を勧請して建立。島は常陸下館藩水谷勝隆が築いたもので、当初は橋がなく、舟で参詣していた。当初の建物は入母屋造であったが、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲で焼失し、昭和33年(1958年)に鉄筋コンクリート造の八角堂として再建された。

旧寛永寺五重塔(北緯35度42分56.2秒 東経139度46分18.4秒 / 北緯35.715611度 東経139.771778度 / 35.715611; 139.771778 (旧寛永寺五重塔)) - 重要文化財。寛永8年(1631年)建立の初代の塔が寛永16年(1639年)に焼失した後、同年ただちに下総古河城主土井利勝によって再建された。塔は旧境内地を使って作られた恩賜上野動物園の園内に位置しており、1958年に寺が寄付したため、現在の所有者は東京都になっている(名称に「旧」とつくのはそのため)。塔の初重に安置されていた釈迦如来薬師如来弥勒菩薩阿弥陀如来の四仏は、東京国立博物館に寄託されている。

東照宮(北緯35度42分55.3秒 東経139度46分14.1秒 / 北緯35.715361度 東経139.770583度 / 35.715361; 139.770583 (上野東照宮)) - 別項「上野東照宮」を参照。

時の鐘(北緯35度42分51.2秒 東経139度46分21秒 / 北緯35.714222度 東経139.77250度 / 35.714222; 139.77250 (寛永寺時鐘堂)) - 上野公園内、精養軒の近くにある鐘楼。


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