すでに述べたように、現在の上野公園のほぼ全域が往時の寛永寺の境内であった。松坂屋上野店あたりから上野公園入口あたりの道をかつて「広小路」と称したが、これは将軍が寛永寺にある徳川秀忠らの霊廟に参詣するための参道であり、防火の意味で道幅を広げていたため、広小路と呼ばれた。
上野公園入口付近には「御橋」または「三橋」と称する橋があって寺の正面入口となっており、その先に総門にあたる「黒門」があった。上野公園内中央を通り、大噴水、東京国立博物館方面へ向かう道がかつての参道であり、文殊楼、その先に法華堂と常行堂、多宝塔、輪蔵、根本中堂、本坊などがあった。その周囲には清水観音堂(現存)、五重塔(現存)、東照宮(現存)、不忍池の中島に建つ弁天堂(現存するが20世紀の再建)などが建ち、また、36か院にのぼる子院があった。
天海は江戸と寛永寺との関係を、京都と比叡山の関係になぞらえて構想していた。すなわち、根本中堂、法華堂、常行堂などは比叡山延暦寺にも同名の建物があり、清水観音堂は京都の清水寺になぞらえたもの(傾斜地に建つ建築様式も類似する)、不忍池と中島の弁天堂は、琵琶湖とそこに浮かぶ竹生島宝厳寺の弁才天にならったものである。 現在は、以下の19か院。 ※以上15か院は、東京国立博物館東側に所在。 東京国立博物館裏手の寛永寺墓地には、徳川将軍15人のうち6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っている。
かつて存在した建物
根本中堂 - 他の諸堂より遅れて元禄11年(1698年)落慶。現在の上野公園大噴水のあたりにあり、重層入母屋造、間口45.5メートル、奥行42メートル、高さ32メートルという壮大な規模の仏堂であった。中堂前には方形に回廊をめぐらし、正面に唐門を設けていた。
本坊 - 根本中堂の裏、現在の東京国立博物館の敷地にあった。前述のとおり、正門のみが上野戦争で焼け残り、しばらくは博物館の正門として使用されていたが、その後博物館の東の輪王寺に移築されている。博物館本館裏の日本庭園は寛永寺本坊庭園の名残りである。
法華堂・常行堂 - 入母屋造の同形の仏堂2棟を左右に並べ、その間を屋根付きの高廊下で繋いだもので、参詣者は高廊下の下をくぐって根本中堂へ向かった。寛永4年(1627年)、紀州藩主の徳川頼宣と尾張藩主の徳川義直の寄進で建立されたものである。寛永期を描いた『江戸図屏風』には中堂の位置にある。
文殊楼 - 入母屋造重層の門。寛永4年(1627年)建立の仁王門が貞享2年(1688年)焼失した後、元禄10年(1697年)に建てられたが、上野戦争で焼失した。
黒門 - かつての総門。現在の上野公園入口から噴水広場へ至る広い道の途中、清水観音堂の下あたりにあったもので、簡素な冠木門であった。幕末の上野戦争には焼け残ったが、明治40年(1907年)、東京都荒川区の円通寺に移築され、同所に現存する。彰義隊戦士の遺骸が円通寺に葬られた縁で移築されたもので、門には上野戦争の時の弾痕が多数残る。なお、現在、清水観音堂近くにある黒門は復元されたものである(既述の旧本坊表門も黒門と通称されるが別個の門である。)。
大仏山パゴダ
上野大仏(面部のみ残存)
弁天堂
時の鐘
黒門(東京都荒川区・円通寺に移築)
子院
真如院
寒松院
林光院
吉祥院
泉龍院
修禅院
現龍院
見明院
福聚院
本覚院
元光院
東漸院
覚成院
春性院
等覚院
養寿院(寛永寺本堂裏手)
津梁院(寛永寺本堂裏手)
円珠院(東京芸術大学音楽学部の西側)
護国院(東京芸術大学美術学部に隣接)
昭和2年(1927年)、東京市立二中(旧制第二東京市立中学校、現在の東京都立上野高等学校)の創立にあたり護国院境内地の大半を東京市立二中へ譲渡。
徳川家霊廟