マグニチュードは河角廣によりMK = 5.5として M = 7.6 (M = 4.85 + 0.5 MK)と推定され[10]、7 1/4 - 7.6[1]、あるいは7.4[11]、M 7.5あるいはそれより上[12]とも推定されているが、地震計の記録のない歴史地震であるためその数値は不確定性を含む。
『続史愚抄』には「此後連々昼夜揺動、至七月云」とあり、また余震と思われる地震は12月まで記録されているという[12]。 三方五湖の久々子湖では約3メートル (m)、水月湖東部では3 - 4.5 m隆起した[1][13]。若狭三方で記された『地頭之覚』には「当国は気山川口一丈余りゆりあげ」とあり、日向湖、水月湖、菅湖のそれぞれ東側の隆起が大きかったため、菅湖から東側の久々子湖へ流入していた気山川が塞がり、三方湖、水月湖、菅湖の湖水が行き場を失い溢れ、湖岸の海山、伊良積、田井、鳥浜など11か村が浸水した。小浜藩主酒井忠直は運河開削を命じ、2年に渡る工事で水月湖東側の浦見坂を掘り抜いて運河(浦見川)を通し久々子湖へ水を流すこととなった[14]。 このような地殻変動は海側まで伸び、津波が発生した可能性があるとされ、701年の大宝地震などと共に若狭湾を襲った歴史津波の検討候補ともされている[15]。 安曇川上流の朽木谷では、「町居崩れ」とよばれる大規模崩壊が発生し、崩壊土砂の直撃により死者約560人。また、河道閉塞(天然ダム)が形成され、堰止めと決壊による被害が生じた[16]。 小浜では古文書から五ツ時(7 - 9時ごろ)にいきなり強震動が襲ってきたように読み取れるが、京都では巳刻頃(9 - 11時ごろ)、鳴動とともに弱い震動が続いた後に強い振動が襲ってきたと解釈できることから、小浜では京都より初期微動の時間が短く、断層破壊開始点すなわち震源に近く、断層破壊は北から始まり南側へ伝播して行った可能性が高いと推定される。 また若狭の記録では発震時刻が巳上刻から巳刻(9 - 10時ごろ)のものが多く、あるいは巳刻から午刻(12時ごろ)まで地震が続いて記録があり、一方で近江では午上刻から午刻、京都、大坂、名古屋では巳刻から午刻、和歌山、岡山、江戸など遠方では午刻の記録となっていることから、まず、巳刻頃に北部の日向断層などが逆断層(西側が沈降)として活動し、午刻頃に南部の花折断層北部が右横ずれ断層として活動したと推定される[5]。遠地では午刻のみ記録されていることから、後者の花折断層の活動の方が規模が大きかったものと推定されている[17]。 一方で1185年の文治地震で活動したと推定されている琵琶湖西岸断層帯については、堅田(現・大津市)において本地震による地盤変動はなかったものと推定され、中世以降活動していないものと推定されている[18]。 寛文近江・若狭地震の揺れによると見られる液状化現象跡や砂脈が滋賀県の各地で発見されている[14]。 南海トラフや日本海溝等を震源とする海溝型の巨大地震が起きる数十年前から、海溝の内側の日本列島内部のあちこちで、比較的大きな内陸地殻内地震が頻発する地震の活動期に入るとする考え方がある。この考え方によれば、既にこの年(1662年)の秋には、海溝型の寛文日向灘地震が発生しているほか、17世紀後半には、越後国、陸奥国、日光、三河国、安芸国など、日本全国各地で比較的大きな地震が発生し、やがて、相模トラフ巨大地震である元禄地震(1703年)、南海トラフ巨大地震である宝永地震(1707年)へとつながっていくと理解されることとなる[19]。
地殻変動
地震像
地震痕跡
大津市の穴太遺跡では扇状地堆積物で平安時代の地層を引裂く液状化跡が発見される。
大津市の蛍谷遺跡では砂脈が平安時代の地層を引裂いていた。
草津市の烏丸崎遺跡では、粘土層が水平に滑り13 - 14世紀の地層に乗り上げた痕跡が発見された。
蒲生郡安土町(現・近江八幡市)の湖南遺跡では、6 - 8世紀の波止場状の遺構において、江戸時代前期の地層と共に液状化により板材が押上げられた痕跡が発見された。
高島市に水没した集落の三ツ矢千軒遺跡
その後の歴史地震との関連
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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