富野由悠季
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作詞家としては井荻 麟(いおぎ りん)で、日本サンライズ事務所のあった上井草駅西武新宿線井荻駅の隣であることに由来する。ほか、絵コンテ、脚本、演出にとみの善幸、斧谷 稔(よきたに みのる)、斧谷 喜幸(よきたに よしゆき)、作画監督に井草 明夫(いぐさ あきお)、声の出演に井荻 翼(いおぎ つばさ)[5]などの別名義を使う。
富野家第2代大島町長・富野喜平次『大島町誌:大東京市併合記念』[6]より

富野家は代々地方の旧家であり、東京大島(江東区)大地主であった[4][7]。祖父・喜平次は大島町長や大塚護謨工作所監査役を務めた[3][8]。また伯父・徳次郎はのち家督を相続し、喜平次を襲名した。なお、父・喜平は兄8人姉8人の末っ子で両親に育てられず、本家で腹違いの長男(徳次郎)夫婦に育てられた[3][9]

曽祖父・喜平治(1832年9月 - 没年不明)

地主[10]


祖父・喜平次(前名:佐太郎、1857年11月12日 - 没年不明)

大島町長[4]。大塚護謨工作所監査役[8]所得税調査委員。


父・喜平(1909年2月 - 2005年頃)

喜平次の九男[8]。日本加工織布社員[3][11]日本大学文科卒[9][11]。96歳で死去[7]


母・幸子(1915年生)

大島町会議員・田中佐吉の長女[12]府立第七高等女学校[11][12]。のち夫・喜平とともに分家[13]。実家はセルロイド玩具製造業[12]。富野曰く、大正期にはセルロイドの人形をアメリカに輸出してかなり成功していたという[3]


伯父・喜平次(前名:徳次郎、1886年8月9日 - 1965年3月13日

喜平次の長男(または三男)[4][13]。地主。東京府会議員[13]


従兄・正男

徳次郎(喜平次)の長男[13]第三高等学校[13]


経歴
幼少期

1941年神奈川県小田原市生まれ。同年生まれのアニメ監督に宮崎駿や同じ虫プロ出身のりんたろうがいる。富野が生まれる前、両親は東京で生活していたが、仕事の関係上小田原へ転勤していた。母についてはあまり語っていないが、幼少期の冨野に「おまえは弱い子なんだよ」と刷り込みのように言い聞かせ、自身の虚弱体質ぶりを自覚させていたという[14]。父は写真家を志し、20歳を過ぎて日大芸術学部の美術・美学専攻学科に入学して、30歳近くまで学生であったが、在学中に太平洋戦争が始まると、徴兵を嫌って化学分野の技術者として小田原の軍需工場で零戦の与圧服の開発スタッフとして勤め[15][16]、父が終戦直後の軍命令に背いて残した与圧服の資料が、科学や宇宙を題材とした自分のアニメ作品の原点になったという[17]。この父の影響で、小学4年の頃は航空宇宙学に携わる仕事に就きたいと考え、中学1年の頃には理工学系、若しくは機械系の仕事を志すようになるが、中学2年になって数学で挫折し、高校受験で工業高校に落ちたことで、理工学系の夢を捨て、文系に切り替えざるを得なくなり、高校の3年間は物語を書くための基礎的な勉強や、小説を書くための練習を行う傍ら投稿を行うようになる[14]

幼児期の冨野は食が細く、オムツ離れや走ることも遅い方だった。また神経が過敏なところがあり、空から降る雪や砂浜に押し寄せる波を極度に恐れていたという[14]。小学生の頃は同級生たちから孤立していた。また、本人曰く「英単語や数字を覚えることが苦手で、あまり勉強出来なかった」という[18]。当時は、どうして周囲の人間が自分をのけ者にするのか理由が分からなかったが、現在になって思い返してみたら自分のほうから彼らにケンカを売っていたことが分かったと回想している。小学生の時に手塚治虫の「アトム大使」(「鉄腕アトム」の前身にあたる作品)を読み、親に「アトム大使」を連載していた雑誌『少年』を毎月買ってくれるように頼む。この経験が、後に富野が手塚治虫と関わるきっかけにつながる[19]。この頃は画家になりたかったのだが、いつまでたっても絵がうまくならず、14歳で画家になる夢に見切りをつける。その後映画の魅力にとりつかれ、映画業界の仕事に興味を持ち始める。
学生時代

戦後に流入したアメリカ合衆国の『月世界征服』や『禁断の惑星』などのSF映画を鑑賞してショックを受けると同時に、映画作りは途方もない労力がかかることを知る[20]。また工業系ではない普通の相洋高等学校に入学したことで、卒業後に就職が出来ず、大学に進まざるを得なくなり、日本大学芸術学部映画科[18]しか入学できる余地がなかったため、親から借金をして進学する[21]。同大学には一年先輩に山本晋也、同窓に神山征二郎[注釈 1]がいるが、どちらも面識はなく、交流もなかった[22]。映画学科の演出コースを専攻したものの、1年と2年の授業は一般教養が主で、それに付随する形で映画関係者の講座が散発的に行われる編成だった。1年の時に演出を志す者としてシナリオを理解するために、シナリオを数本書く課題があり、高校時代に小説を執筆した経験が活かされて無事こなすことが出来たが、映画関係者が行う講座には全く魅力を感じず、学生にアーカイブの映画フィルムを貸し出すシステムも存在しなかったので、1年の2学期から3年の1学期いっぱい迄、ほとんど授業には出なかった。また、当時の映画産業は先細りの時代を迎えており、富野が3年生となった年に、大手の映画会社は軒並み新規の採用を取りやめ、ドラマ業界は映画会社から移った関係者たちに独占されて、富野のような新卒者が入り込める場所はなくなっていた[23]
学生運動

日大に入学した1960年は、俗に「60年安保」と呼ばれる安保闘争の年で、1年に学部の自治会に入会し、2年時には自治会長を務めていた富野も、自治会連合の執行部である中央執行委員会(以下、中執)に出入りするようになり、そこで初めて安保闘争の概要を把握するようになる。当時、日大の中執は全日本学生自治会総連合のような反社会的な行動は取らず、産学共同を命題に掲げた御用自治会あり、富野は突拍子もない発想を口にする学生たちが物珍しく、2年の秋頃まで入り浸っては彼らを傍観していたが、中執が御用自治会であると把握した途端に嫌気が差し、中執の事務所に隣接していた日本私立大学団体連合会(以下、私学連)の執行部に入り浸るようになる。


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