富田耕生
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東京府王子区(現:北区の一部)に生まれ、銀行マンの家庭に育つ[2][3][5]。生家は飛鳥山の近くにあった江戸の昔から庶民の行楽地として有名であり、の頃には人で賑わっていた[3]。少年時代、山を駆けめぐり、イチョウの木に登ってはギンナンを集めたり、近くの名主の滝まで足をのばしては、ごうごうと音をたてて落ちる滝に打たれたりして、わんぱくに遊んでいた[3]。小学3年生で戦争のため、群馬県勢多郡粕川村(現:群馬県前橋市粕川町)に学童疎開した[3]。高校は東京都立第四商業高等学校に進学して卓球部に所属し、高校時代の1953年徳島県で開催された第8回国民体育大会に卓球で出場した[3]。そのほかに、高校時代は演劇部と自分たちの演劇グループの2つで活動した[5]。高校の演劇部の先輩には関根信昭、後輩には声優の古川登志夫がいる[13]

高校時代に劇団東俳の舞台『青いリンゴ』を見たことから舞台俳優に憧れ、高校を卒業する前に東芸の試験を受験し、卒業後には研究生になる[3][14]。役者を目指すが両親の反対から中央大学法学部へ入学するが、1年で退学した[5]。退学したことは両親に黙っていたが、2年後に姉の協力もあり許してもらえたという[5]。東芸では3期生にあたり[15]。研究生仲間には田の中勇[13]、少し後輩の「3期生半」には野沢雅子がいた[15]。研究生時代には食べるために新聞配達やサンドイッチマンなどアルバイトならなんでもやり、同じく東芸に所属していた俳優の山谷初男とは三畳一間の同居生活を送っていた[3]
キャリア

東芸で舞台俳優としての活動をする傍ら[11]、『淡島千景ショー』などのラジオ番組でガヤを担当したり、生放送時代のテレビドラマに俳優として出演するなどマスコミ仕事もした[14]。声優としてのデビュー作はNHKラジオ時代劇ラジオドラマでの端役だという[16]1961年から1969年から放送されたテレビドラマ『七人の刑事』(TBSテレビ)の終わり頃にはかなりいい役で出演するようになっていた[14]

劇団東芸に吹き替えの仕事が舞い込むこととなり、劇団では若手だった富田が本格的に声優業を始めることになる[14]。日本語吹替のデビュー作は本人いわく「『アニーよ銃をとれ[注 1]か『ロビン・フッド』[注 2]だと思う」とのこと[5]テレビアニメでのデビュー作は1963年、『鉄腕アトム (アニメ第1作)[11][12]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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