富嶽百景_(北斎)
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富嶽百景

冨嶽百景
『富嶽百景』初編初編「快晴の不二」

『富嶽百景』(ふがくひゃっけい)は、葛飾北斎画、江川留吉[注釈 1]による富士山を題材とした全百二図・全三編から成る薄墨摺の半本絵本である[2][3]。天保5年(1834年)に初編、天保6年(1835年)に二編が、西村屋与八の近縁の版元西村屋祐蔵から刊行され、三編は名古屋の版元永楽屋東四郎から刊行された[4]。三編の刊行年は分かっていない[2]。細部まで拘りぬかれた彫と、淡墨の効果を活かした摺が行われた絵本分野における北斎の最高傑作とされる作品である[2][5]。落款は初編に「七十五齢前北斎為一改画狂老人卍筆」とあり、壮年期に用いた画狂老人の号と川柳で使用していた卍の号を掛け合わせた画号を初めて用いるようになった[6]
背景

富士山は日本において古くから信仰の対象として崇められている山であり、11世紀の『聖徳太子絵伝』などを皮切りに様々な絵師によって題材とされてきており、数多くの先蹤作品が見られる[7]。その中でも河村岷雪が明和8年(1771年)に上梓した『百富士』の影響は少なくないと指摘されている[7]。一方で北斎自身の創造力や造形力を高く評価した論者は、構図の奇をてらっているだけでモチーフの配置に緊張感が無い『百富士』のような作品とは同一視できないとして、その影響を過大視しないよう戒める意見を表明している[8]。その他、美術史家の鈴木重三は、当時の江戸市中で隆盛した富士講富士塚の設立といった富士信仰に対する注目の高まりが、富士山という画題選定の背景となった可能性を指摘している[9]

北斎はその画号を為一と改めた文政初期より富士山に対する執着が見られるようになった[10]。文政6年(1823年)に刊行された『今様櫛きん雛形』[注釈 2]では、「なつのふじ」「うらふじ」「ふゆのふじ」「よあけのふじ」「八ツがだけのふじ」「みこしのふじ」「きやうかのふじ」「くわいせいのふじ」という富士山を題材とした櫛の図案八図が描かれている[10]。『今様櫛きん雛形』の奥付には「四季晴雨風雪霧天の造化に随い景色の異るを筆端に著す」として『富嶽八体』という作品の刊行が予告されている[12]。この構想は揃物錦絵『冨嶽三十六景』へと引き継がれたと見られ、天保元年(1830年)ごろよりその制作が始められた[13]。『冨嶽三十六景』では江戸市中や東海道などさまざまな地点からの富士山を描き、幾何学的な構図や奇抜な視点での構図なども取り入れられ、大判の錦絵として大いに人気を博したことから、当初三十六図の予定が十図を追加して刊行された[14]。青葱堂冬圃の随筆『真佐喜のかつら』では同じくベロ藍が用いられて大流行した渓斎英泉の団扇絵の倍の売り上げがあったことが記されている[15]。そして天保5年(1834年)3月、75歳を迎えた北斎画、富士図の総決算として並々ならぬ決意と意欲でもって制作された『富嶽百景』初編の刊行が行われる運びとなる[16]。版元の出版予告では、北斎が『富嶽百景』制作にあたって「翁僕に語りて曰我真面目の画訣この譜に尽せり」と述べたと記されている[16]。美術史家の楢崎宗重歌川広重が刊行を始め、高い人気を得た『東海道五十三次』に触発され、『富嶽百景』の制作に取り掛かったと推察している[17]。なお、『富嶽百景』の構想がまとめられ収載図を取り決めて制作を開始したのは『冨嶽三十六景』完結後と見られる向きがあるが、天保5年(1834年)の出版広告にすら『冨嶽三十六景』が完結したことを窺わせる部分が無いことから、浮世絵研究者の永田生慈は、こうした通説に疑義を呈している[18]
制作


左『冨嶽三十六景』の最終図「諸人登山」
右『富嶽百景』初編第1図「木花開耶姫命」


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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