北斎はこの跋文において、これまで自身が多様なジャンルに膨大な作品を残しながらそれらを「取るに足らないもの」と切って捨て、今後の画業に強い気概を示した[6]。この跋文発表以降が北斎の最晩年期として区分されるが、錦絵の制作量が極端に減少し、絵本、絵手本の制作に傾注した後に肉筆画制作へと移ってゆくこととなる[24]。こうした傾向から永田は、北斎は浮世絵師という職を超越し、新たなる絵画の世界を目指したとしている[25]。初編は天保3年5月、二編は天保6年3月に版元西村屋祐蔵から刊行されたが、西村屋の営業不振により版木が永楽屋東四郎に売却され、三編が刊行された[18]。 『富嶽百景』の彫りは複数の彫り師によって担当され、一部を除き作品ごとに彫り師の名が示されている[26]。摺りを行った職人については判明していない[27]。江仙こと江川仙太郎 『富嶽百景』を受けて歌川広重は絵本『富士見百図』の制作に取り掛かった[注釈 4]。この序文において広重は「葛飾の卍翁、先に富嶽百景と題して一本を顕す。こは翁が例の筆才にて、草木鳥獣器材のたぐひ、或は人物都鄙の風俗、筆力を尽し、絵組のおもしろきを専らとし、不二は其あしらひにいたるもの多し。此図は、夫と異にして、予がまのあたりに眺望せしを其儘にうつし置たる草稿を清書せしのみ。小冊の中もせばければ、極密には写しがたく、略せし処も亦多けれど、図取は全く写真の風景にして、遠足障なき人たち、一時の興に備ふるのみ。筆の拙きはゆるし給へ。」と、北斎の『富嶽百景』について言及し、北斎の作品が構成の奇妙さや絵組のおもしろさを重要視しているのに対し、自身の作品は現場に赴いて写生した忠実な風景であるとして、その違いを強調した[30]。 『富嶽百景』は日本国内においては絵画そのものよりも跋文が注目を集めていた[31]。この跋文については老いてなお精進を誓う決意の表れであるとして評価するものが一般的であるが、老い先短い老人の空威張りであると酷評する言説もある[32]。 内容について昭和23年(1948年)に芸艸堂が北斎百年忌を追悼して摺印発行された『富嶽百景』(芸艸堂版)において、解説を担当した小島烏水は、北斎の『富嶽百景』について『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』に雁行する作品であると評している[33]。漢学者の尾崎周道
彫りと摺り
評価と影響
その他、太宰治が1939年に発表した同名の短編小説『富嶽百景』には、表題のみならず、文章表現やシチュエーションなどにおいて初編「霧中の不二」「田面の不二」「鏡臺不二」「雲帯の不二」「花間の不二」二編「盃中の不二」三編「見切の不二」「大井川桶越の不二」などの作品との類似性が、太宰文学の研究を行っている青木京子より指摘されている[37]。
一方で欧米諸国では早期に受容され、その内容が高く評価されてきた[31]。イギリスの日本文学研究者フレデリック・ヴィクター・ディキンズは、1880年に『富嶽百景』を上梓し、ヨーロッパで初めてその全貌を紹介し、解説した[38]。同著の中でディキンズは「西洋の基準に従ったとしても北斎が真の才の持ち主であることに疑いの余地はない」と賛辞を贈っている[39]。フランスの小説家エドモン・ド・ゴンクールは1896年の『北斎』の中で『富嶽百景』について「秀逸でユーモアあふれる観察の妙を詰め込んだ」と評している[39]。20世紀に入るとドイツを中心として美術史学が確立し、非西欧地域の美術に対しても歴史的研究の対象と見なして取り込んでいく傾向が見られるようになった[40]。
作品
代表作例
海上の不二