富士講にとって聖地は富士山であり、巡礼として富士山登拝を繰り返す。講派によって日数や作法は違うが、事前に一定の期間身を清めてから登山に臨む。人穴(ひとあな)
角行修行の地である人穴は聖地とされており、講員らが訪れる。人穴に隣接する人穴浅間神社は主祭神を角行としている。さかんに碑塔の建立されたので、現在も約230基の碑塔群が残っている。現在は「人穴富士講遺跡」として知られている。富士講碑にみられる「ヤマサン」の笠印(人穴富士講遺跡)
富士講信者には「富士講碑」という記念碑を奉納する文化が存在した。(なお、この碑の特徴として「笠印」というマークの刻印が挙げられる。この笠印は講社により異なり、「マルサン」や「ヤマサン」などの種類がある[11]。)
巡礼富士山巡礼者。日下部金兵衛撮影。1880年。白糸の滝
富士講信者は富士山の登拝だけでなく、富士五湖や白糸の滝などの巡礼地で、巡礼や水行などの修行を行っていた[4]。また忍野八海や洞穴(船津胎内樹型や吉田胎内樹型など)も霊場・巡礼地となっていた[4]。 富士八海と総称された巡礼地があり、富士山周辺の霊場を中心に構成される内八海と、関東?近畿地方に広がる外八海に分けることができる。内八海は富士五湖の各五湖と明見湖(あすみのうみ、富士吉田市)、四尾連湖(志比礼湖、しびれのうみ、市川三郷町)、泉端(泉水湖、せんづのうみ、富士吉田市)が近世富士講の巡礼地であった[12]。しかしそれより以前は、泉端ではなく須戸湖(沼津市・富士市)を含めて「富士八海」とされていた[13]。 外八海は二見海(二見浦、三重県)、竹生島(琵琶湖、滋賀県)、諏訪湖(長野県)、榛名湖(群馬県)、日光湖(中禅寺湖、栃木県)、佐倉湖(桜ヶ池、静岡県)、鹿島湖(霞ヶ浦・茨城県)、箱根湖(芦ノ湖、神奈川県)である。
富士八海
主な指導者一覧
開祖 角行(長谷川角行、藤原角行東覚)
二世 黒野日行日?
三世 赤葉?行?心
正統派、村上派とも。もとは村上講と呼ばれたが、のちに富士御法家という呼称になった。枝講を認めなかったため、昭和に入って衰退し東京では断絶した。光清派の後継を名乗る宗教としては冨士教がある。
六世 村上光清(村上三郎右衛門)
七世 光照
月行の師に二説があるため、四世月?を数える場合と数えない場合がある。
四世(五世) 森月行??
食行身禄は枝講を認めたため、多数の講に分裂した。中でも三女である一行花の系統が主流となった。現在は実行教、扶桑教、丸山教という宗教としても集結しているが、当時の形を残す複数の講も残っている。
丸鳩講→不二道
六世 伊藤花子一行(伊藤花(お花)、食行身禄三女、小笠原権九郎夫人)
七世 伊藤参行六王(花形浪江、お花の弟子のち養子)
八世 小谷禄行三志(小谷三志、丸鳩講→不二道開祖)
九世 小谷六行三子(小谷庄兵衛、不二道孝心講開祖)
九世 徳大寺参行三息(大徳寺行雄、神道実行講開祖)→実行教へ
一山講
琢心一我(小泉文六郎、食行身禄弟子、食行身禄長女お梅の奉公先の隣人)
日行八我(一山講開祖)→扶桑教へ
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 16世紀後半から17世紀前半
^ 後世、長谷川角行・藤原武邦とも
出典^ a b ⇒世界遺産『富士山-信仰の対象と芸術の源泉』江戸時代に流行した民衆信仰「富士講」と日本人本来の心の領域岩下哲典、世界遺産アカデミー20号、2013年7月15日