富士航空機墜落事故
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事故調査委員会の事故調査報告書によれば、902便は大分空港への着陸アプローチまでは正常に飛行していたが、着陸後に行うプロペラのリバース[4]もしくは非常ブレーキ操作のいずれかに、不適切な操作または機械の欠陥があったと推定された。最終的な事故原因として着陸時の速度超過、リバース機能の作動不良、不十分なフットブレーキの効果などが挙げられたが、それぞれがどの程度事故に影響したのかは判別されなかった[3]

なお、富士航空は主に西日本のローカル路線を中心に運航していた航空会社であったが、規模的には中小企業であり経営難に陥っていた。そのため、事故後の1964年4月1日には、他の弱小航空会社であった日東航空北日本航空と合併し、日本国内航空[5]になることが決定しており、本事故はその矢先に発生したものである。また、合併予定であった日東航空でも本事故の9日前におやしお号墜落事故が発生しており、それに続く事故となった。
その他旧大分空港の空中写真(1970年)

この事故を機に両側を河川に挟まれ拡張が困難という旧大分空港の構造的欠陥が浮き彫りとなり、更に市街地からも近かったことから本格的な移転が具体化した。結果として1971年に国東半島に新大分空港が開港し、大分市の旧空港は1973年に閉港となった。

墜落現場付近の旧滑走路(現大洲総合運動公園)東端に、墜落犠牲者の慰霊碑が存在する。
脚注^ a b 「乗客ら30数人死亡 大分で旅客機炎上」『京都新聞』昭和39年2月27日号外
^ 国東市にある現在の空港ではなく、大分市内にあった旧空港。現在、跡地は新大分球場などがある大洲総合運動公園として整備されている。
^ a b “Accident description Fuji Air Lines Flight 902”. Aviation Safety Network. 2021年1月29日閲覧。
^ プロペラの角度を変えて推進力を逆にして、機体を減速させる機能である。
^ その後、東亜航空と合併して東亜国内航空となり、後に日本エアシステムに社名変更。さらに、旧日本航空と合併し、現在の日本航空となる。

関連項目

航空事故

外部リンク

【1964年2月27日】 富士航空機墜落 大分で20人死亡
- 毎日ニュース

「事故続きのローカル空路」(昭和39年3月公開) - 中日ニュース529号(動画)中日映画社










1963年・ 1964年 (1964)の航空事故・インシデント ・1965年


01月28日:アメリカ空軍T-39

02月18日:日東航空101便

02月25日:イースタン航空304便

02月27日:富士航空902便 

04月05日:アメリカ海軍F8U-2

05月07日:パシフィック航空773便

09月08日:アメリカ海軍F8U-2

11月23日:トランス・ワールド航空800便


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