富井政章
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日露戦争前夜には主戦論を唱え、七博士の1人として七博士建白事件に関与した。
幻の胸像1897年、パリにて撮影

1927年(昭和2年)、富井の学長辞任を受けた立命館大学では、在任27年の功績を讃え、校友会が中心となって胸像を贈る計画が持ち上がった。富井も一旦は胸像制作を受諾したが、あとになって延期を申し出ている。下記は胸像延期要請の書簡の一部である(1928年〈昭和3年〉1月22日付)。「極て質素ならば云々と申上候得共其後篤と相考候に小生是迄相当の功績ある人に対しても存命中より其像を作りて表彰することは平素の時論として常に不賛成を表し候たる事のも有之然るに今自分が殆ど有名無実の学長たりにしも不拘存命中より眞先に校内に胸像を置かるることは如何にも心苦しき次第に有之、各位の御厚意は心底より感謝する所にて精神上御請到候と寸毫も相異なる所無之只此際実行は御見合せ被下候....今後或機会に立命館の創立者として多年一日の如く献身的に全力を注ぎ居らるる中川館長の分を作らるる際同時に実行せらるることならば左迄目立ちもせずじで御請出来可申歟と存候に付き兎に角此際は一先御延期の事に相願度」(『立命館学誌』第119号、1928年11月15日、13頁。原文は旧字体カタカナ表記)
家族・親族

妹のマサが法政大学創立者の一人薩?正邦の妻であるため、薩?正邦は富井政章の義理の弟にあたる。富井と薩?はともに官立の京都仏学校で、レオン・デュリーのもとで学んでいたデュリー門下[16]でもあり、東京法学校(現法政大学)の講師時代には薩?宅で同居していたこともあった[17]

長男の富井周サンフランシスコ総領事等を務めた外交官。その長女は石坂泰三の三男に嫁いだ。四男恒雄(日本銀行員)の岳父に波多野承五郎、長女ミツは太刀川平治に、三女淑は植村甲午郎にそれぞれ嫁いだ[18]
エピソード

留学の経験から、コーヒーチーズを好物としており、民法編纂時にも小田原伊藤博文の別荘に持ち込んで、コーヒーを自分で挽いて飲むことを常とした。チーズは高級な臭いものを特に好み、伊藤邸の戸棚の中に入れておいたため、戸棚が臭くなり女中が閉口したという。チーズにが湧いてくると、そういうのがうまいのだといって、蛆を掻き分けて食べたという話が伝えられている[19]

ちなみに、イタリアには実際にをとりつかせて発酵させるカース・マルツゥというチーズが存在する。
略歴1934年春撮影

京都府京都中学校官立京都仏学校[注 3]を経て上京。

1874年 東京外国語学校仏語科に入学。

1877年 私費でフランスに留学し、博物館で働きながらリヨン大学法学部に入学。学部時代の最終成績は2位で奨学金を得て博士課程に進み、優等の成績で法学博士等三つの法学位を取得して卒業(博士論文ローマ法及びフランス法における代金不払による売主の解除権」)。

1883年 東京法学校(現法政大学)講師。

1885年 東京大学法学部教授。

1886年 帝国大学法科大学(現東京大学法学部)教授。

1891年 貴族院勅選議員

1892年 民法商法施行取調委員[注 4]

1893年 法典調査会民法起草委員。

1895年 帝国大学法科大学長。

1900年 京都法政学校(現立命館大学)校長(1904年まで)。和仏法律学校(現法政大学)校長(10月 - 1902年10月)。

1905年 立命館大学学長(1927年まで)。

1906年 帝国学士院会員。

1916年 宮内省御用掛。

1917年 内大臣府御用掛。

1918年 枢密顧問官常設仲裁裁判所裁判官

1926年 華族に列し、男爵に叙される。

1928年 民法改正調査委員長。

1934年 日仏会館理事長。

墓所は文京区護国寺

栄典
位階


1885年(明治18年)9月16日 - 従六位[20]

1892年(明治25年)2月29日 - 正六位[20]


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