密教
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パーリ仏典の長部『梵網経』には、迷信的な呪術や様々な世間的な知識を「無益徒労の明」に挙げて否定する箇所があり、原始経典では比丘が呪術を行うことは禁じられていたが、律蔵においては(世俗や外道で唱えられていた)「治歯呪」や「治毒呪」[17][18][19]といった護身のための呪文(護呪)は許容されていた[20]。そうした特例のひとつに、比丘が遊行の折に毒蛇を避けるための防蛇呪がある(これが大乗仏教において発展してできたのが初期密教の『孔雀王呪経』とされる[21])。密教研究者の宮坂宥勝の考察によれば、本来は現世利益的な民間信仰の呪文とは目的を異にするもので、蛇に咬まれないためには蛇に対する慈悲の心をもたねばならないという趣旨の偈頌のごときものであったとも考えられるが、社会における民衆への仏教の普及に伴って次第に呪術的な呪文へと転じていったのでないかという[22]

また意味の不明瞭な呪文ではなく、たとえば森で修行をするにあたって(木霊の妨害など)様々な障害を防ぐために慈経を唱える[23]、アングリマーラ経を唱えることで安産を願う[24]など、ブッダによって説かれた経典を唱えることで真実語(sacca-vacana)によって祝福するという習慣が存在する。こうした祝福や護身のために、あたかも呪文のように経典を読誦する行為は、パーリ仏教系統では「パリッタ」(paritta 護経、護呪)と称され、現代のスリランカや東南アジアの上座部仏教でも数々のパリッタが読誦されている[25]

インドの錬金術が密教となり、密教は錬金術そのものであったとの仮説[26]があるが、一般的な見解ではないし、また仏教学の研究でも検証されていない。詳細は「龍樹」を参照
初期密教

呪術的な要素が仏教に取り入れられた段階で形成されていった初期密教(雑密)は、特に体系化されたものではなく、祭祀宗教であるバラモン教マントラに影響を受けて各仏尊の真言陀羅尼を唱えることで現世利益を心願成就するものであった。当初は密教経典なるものがあったわけではなく、大乗経典に咒や陀羅尼が説かれていたのに始まる。大乗仏教の代表的な宗派である禅宗では「大悲心陀羅尼」・「消災妙吉祥陀羅尼」等々、日本でも数多くの陀羅尼を唱えることで知られているが、中でも最も長い陀羅尼として有名な「楞厳呪」(りょうごんしゅ)は大乗仏典の『大仏頂首楞厳経』に説かれる陀羅尼であり、中国禅では出家僧の女人避けのお守りともされている。
中期密教

新興のヒンドゥー教に対抗できるように、本格的な仏教として密教の理論体系化が試みられて中期密教が確立した。中期密教では、世尊(Bhagav?n)としての釈尊が説法する形式をとる大乗経典とは異なり、別名を大日如来という大毘盧遮那仏(Mah?vairocana)が説法する形をとる密教経典が編纂されていった。『大日経』、『初会金剛頂経』(Sarvatath?gatatattvasa?graha)やその註釈書が成立すると、多様な仏尊を擁する密教の世界観を示す曼荼羅が誕生し、一切如来[注 5]からあらゆる諸尊が生み出されるという形で、密教における仏尊の階層化・体系化が進んでいった。

中期密教は僧侶向けに複雑化した仏教体系となった一方で、却ってインドの大衆層への普及・浸透ができず、日常祭祀や民間信仰に重点を置いた大衆重視のヒンドゥー教の隆盛・拡大という潮流を結果的には変えられなかった[注 6][27]。そのため、インドでのヒンドゥー教の隆盛に対抗するため、シヴァを倒す降三世明王ガネーシャを踏むマハーカーラ(大黒天)をはじめとして、仏道修行の保護と怨敵降伏を祈願する憤怒尊や護法尊が登場した。
後期密教

インドにおいてヒンドゥー教シャークタ派タントラシャクティ(性力)信仰から影響を受けたとされる、男性原理(精神・理性・方便)と女性原理(肉体・感情・般若)との合一を目指す無上瑜伽の行も無上瑜伽タントラと呼ばれる後期密教の特徴である。男性名詞であるため男尊として表される方便と、女性名詞であるため女尊として表される智慧が交わることによって生じる、密教における不二智を象徴的に表す歓喜仏も多数登場した。無上瑜伽タントラの理解が分かれていた初期の段階では、修行者である瑜伽行者がしばしばタントラに書かれていることを文字通りに解釈し、あるいは象徴的な意味を持つ諸尊の交合の姿から発想して、女尊との性的瑜伽を実際の性行為として実行することがあったとされる。そうした性的実践が後期密教にどの時期にいかなる経緯で導入されていったかについてはいくつかの説があるが、仏教学者の津田真一は後期密教の性的要素の淵源として、性的儀礼を伴う「尸林の宗教」という中世インドの土着宗教の存在を仮定した[28]。後にチベットでジョルと呼ばれて非難されることになる性的実践[29]は主に在家の密教行者によって行われていたとも考えられているが、出家教団においてはタントラの中の過激な文言や性的要素をそのまま受け容れることができないため、譬喩として穏当なものに解釈する必要が生じた[30]。しかし、時には男性僧侶が在家女性信者に我が身を捧げる無上の供養としてそれを強要する破戒行為にまで及ぶこともあった。

さらには、当時の政治社会情勢から、イスラム勢力の侵攻によるインド仏教の崩壊が予見されていたため、最後の密教経典である時輪タントラ(カーラチャクラ)の中でイスラムの隆盛とインド仏教の崩壊、インド仏教復興までの期間(末法時代)は密教によってのみ往来が可能とされる秘密の仏教国土・理想郷シャンバラの概念、シャンバラの第32代の王となるルドラ・チャクリン(転輪聖王)、ルドラ・チャクリンによる侵略者(イスラム教徒)への反撃、ルドラ・チャクリンが最終戦争での王とその支持者を破壊する予言、そして未来におけるインド仏教の復興、地上における秩序の回復、世界の調和と平和の到来、等が説かれた。

インド北部におけるイスラム勢力の侵攻・破壊活動によってインドでは密教を含む仏教は途絶したが、後期密教のさらに発展した体系は今日もチベット密教の中に見ることができる。
チベット密教詳細は「チベット仏教」を参照

チベット仏教は、所作タントラ、行タントラ、瑜伽タントラ、無上瑜伽タントラなど、初期密教から後期密教にいたる密教経典と、それに基づく行法を継承している。

漢地では、モンゴル系のの朝廷内でチベット系の密教が採用され、支配者階級の間でチベット密教が流行した。漢民族王朝のにおいてもラマ僧を厚遇する傾向があったが、満洲民族王朝のに至って、王室の帰依と保護によってチベット仏教は栄え、北京の雍和宮など多くのチベット仏教寺院が建立された。


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