寄席
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場所が常設小屋になったのは文化年間(19世紀初頭)ごろからで、天保の改革で数が制限されたが、安政年間(19世紀後半)には約400軒と急増した[2]

講談が一番古い歴史を持つ。明治大正期までは、落語や講談、浪曲、義太夫祭文を主にかける寄席が存在し、明治末から大正にかけての活動写真館(のちの映画館)の爆発的な増加、ラジオの登場、興行系娯楽のライバルである小劇場や寄席全体の数が激減していく中で、東京では落語を主にかける寄席(色物席)のみが比較的多く残った[3]。現在は意味範囲が若干変遷し、落語・浪曲など番組の主演目以外の演目は色物と呼び、区別する。最後の演者(本来の「真打」)は基本的に落語であり、主任(トリ)と呼ばれ、その名前は寄席の看板でも一番太く大きな文字で飾られる。トリになれるのは基本的に真打の落語家のみだが、まれに真打以外の落語家や落語以外の演者がトリとなる場合がある。

歴史が長く、今もおなじみの色物演目には、音曲物まね(声色遣い)・太神楽曲独楽手品紙切り・(大正時代からの)漫談腹話術などがあり、下火になった演目にかっぽれ新内デロレン祭文、源氏節、八人芸(現在は見られない)。主に地域芸能としての道を行くものに八木節安来節江州音頭河内音頭)などがある(西洋由来のコントは比較的新しい演目である。ストリップも参照のこと)。多くは大道芸として野天やヒラキと呼ばれるよしず張りの粗末な小屋から始まり、寄席芸に転化していった。

経営や後継問題により数は減ったが、お座敷芸より連なる伝統的芸能を支える空間としての役割を果たしながら、「悪場所」「悪所」と呼ばれてきた都市文化の華としての地位を江戸時代初期から守っている。

定席とは、本来毎月休むことなく開演している寄席、程度の意味であるが、狭義の寄席として[4]東京では鈴本演芸場新宿末廣亭浅草演芸ホール池袋演芸場の四席のみとされ、落語関係者のみならず演芸関係者一同(日本演芸家連合)が開設に尽力した国立演芸場や、落語芸術協会などが定席興行を行っている永谷商事運営の演芸場(お江戸上野広小路亭お江戸日本橋亭お江戸両国亭など)も含めない場合が多い[注釈 1]

予約・席取りなどは無く、自由席の場合が多い。1日の中で客の入れ替えは基本的に無く[注釈 2]、再入場はできない。

また「演芸場」「劇場」との名称の混乱が今も見られるが(劇場を表す「座」の扱われ方に象徴的である)、法律で定められた興行系娯楽は「劇場」「寄席」(あとは観セ物→「映画館」が独立[注釈 3])が種別であり、総称として「演芸場」があったが、実際の運用ではその壁を飛び越えたり[注釈 4][5]、また地方部の興行場においては「未分化」の状態であった[6]事の影響が未だに残っているのである[注釈 5]。大阪のマンモス寄席(角座)もその範疇に入るものである。

関西では長らく寄席の存在が途絶えていたが、2006年9月15日に大阪天満宮横に、大阪では半世紀ぶりの寄席となる「天満天神繁昌亭」が開場した。その後、2018年には神戸に「神戸新開地・喜楽館」が開場している。

@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}寄席が落語と切り離せないのは、落語家にとって寄席が修行の場であり芸を磨く唯一無二の舞台とされること、観客も贔屓の演者の成長と演者ごとの演出の違いを楽しむという点にあり、「完成品」を見せるホール落語と違い寄席落語には「未完成」なりの面白さ、真剣さがあるとされる(新宿末廣亭初代席亭の北村銀太郎の発言より)。[要出典]

なお、「よせ」の語源については、「よせせき」「人寄せ席(ひとよせせき)」の略称であるという。
歴史

寄席の起源は、一般的には江戸初期に神社寺院の境内の一部を借りて、現在の講談に近い話を聞かせる催し物が開かれていたもの(講釈場)である。ただ、これは不定期に催されるものであったようである。

これが原型となって、初めて専門的な寄席が開かれたのは、寛政10年(1798年)に江戸下谷にある下谷神社の境内で初代・三笑亭可楽によって開かれたものとされ、当神社には現在の定席四席による寄席発祥の石碑がある。当初は「寄せ場(よせば)」と[7]呼ばれ、後に寄席と呼ばれるようになった。

江戸では町方や新吉原、寺社境内などに[要出典]寄席が広まっており、江戸では乞胸と呼ばれる寄席と同様の芸能活動を行う都市下層芸能民がおり、しばしば寄席と対立した[要出典]。天保13年(1842年)2月には老中水野忠邦の主導する天保の改革の影響で規制を受け一時衰微するが、水野の失脚とともに復活する。幕末にかけて江戸を中心に大いに普及し、現代と違って娯楽が乏しかった時代、各町内に一軒は寄席があった。当時の演目は講談、落語の他、「役者声色、物まね、娘の浄瑠璃、八人芸、浮世節など芸人を集め[8]」ていた。

明治に入ると、芝居小屋(劇場)との区分の明確化・芸人鑑札制による状況把握・徴税が、維新後まもなくの1871年(明治4年)より続々と始まり[9][10]巡査による臨検席も設けられた[11]、落語中興の祖三遊亭圓朝の道具立ての芝居噺から素噺への転向(その語り口は速記され、二葉亭四迷言文一致体の発明に影響を与え、現代日本語の元となる)や、かっぽれ梅坊主が出演し、咄家による珍芸が流行(珍芸四天王)、新内が寄席の舞台に上がる。ほぼ同時期に、講談の大流行(泥棒伯圓と呼ばれた二代目松林伯圓など。自由民権運動演説と相互に影響を与え、政治講談も盛ん)、女義太夫の大流行(綾之助呂昇の登場)、自由民権活動家・浮世亭○○こと川上音二郎の登場(京都・笑福亭を本拠にした。壮士芝居(→新派劇)にその行動を定める前の時期である)、浪花節による席巻(大道芸から浪花亭駒吉による寄席芸としての確立)があり、東西で規模が大きな寄席も現れた。
明治40年ごろの東京の寄席

1907年(明治40年)に東京市が編集発行した地誌『東京案内』は、明治末の東京を知るのに右に出るものはないとされている著名な出版物[12]である。明治39年末時点の東京がわかる。

きめ細かく網羅的に東京の事物が挙げられている中に、寄席に関する記述もあり[13][14]、まず東京市内・近郊で寄席の数は計141軒。内訳は、まず講談が、おおむね各区ごとに一つはあり、24軒。当時「色物席」という形で分けていた落語・色物の定席は、75軒。中には、有名な人形町の末廣亭や神田・立花亭、上野・鈴本亭も含まれる。浪花節席は、30軒。神田市場亭(後に入道舘→民衆座)が見られる。まんべんなくあるが、特に下谷区浅草区から本所区、深川区にかけて多く分布している。現在は消滅した義太夫専門の定席が3軒ある。神田・小川亭、日本橋・宮松亭、浅草・東橋亭の名。さらに、祭文[注釈 6]の席として下谷・竹町に佐竹亭の存在が確認できるのが、浪花節の歴史の点からも特筆される。この他に、混成の席の中で、内藤新宿に末廣亭(旧・堀江亭。浪曲・色物)、品川に七大黒(色物・義太夫)の存在が確認できる。

という内訳であるが、演目は決して固定されていたわけではなく、多くが家族経営の零細企業であった寄席は[15]、かかる演目は席亭主の意向で自在に変わり、例えば色物席でも年に一度は必ずと言っていいほど義太夫がかかっていたという。

寄席の開演時間については昼席公演は少なく、夜席が多く、その終演は「午後10時から11時に至るを常とし」とある[注釈 7]。これにより一人当たりの口演時間が長い講談・浪花節でも「二軒バネ、三軒バネ」が可能であったことがわかる。また各演目別事情・料金等についても触れられている。当時の寄席用語として、付近八丁の寄席の客を奪うほど人気のある芸人という意味で「八丁荒らし」がある(むろん褒め言葉である)。

明治から大正にかけての時期には、寄席で源氏節、八木節安来節[注釈 8][注釈 9]の全国的流行、関西においても河内音頭などが寄席の舞台に登場した。


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