家老
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さらに版籍奉還後の明治3年(1870年)9月10日に藩制[8]が布告され、執政・参政が、奏任官の大参事・権大参事・少参事・権少参事に改められた。
大藩の家老

大藩の家老には、大名並みに1万石以上の石高と数村レベルでまとまった知行地を有し、自身の知行地に陣屋を持つ者もいた。1万石以上の知行地を持つ者[9]を大名分と呼んだ。

江戸時代の家老として最も高禄であった家系は、加賀100万石の本多家5万石である。上杉景勝(120万石)の家老・直江兼続(直轄6万石、寄騎領24万石、計30万石)の婿養子となった本多政重(5,000石)が、関ヶ原の合戦後に大減封を受けた上杉家を出奔して加賀藩前田氏に仕官し、本多姓に復したのが始まりである。「加賀藩の領地の一部(越中)を幕府に返還せよ」との命令を撤回させた交渉の勲功で、大加増を受けた。
小藩及び、幕府旗本の家老

1万石程度の小藩の家老は、家老連綿の家格の出身者の場合で、おおむね300石前後の蔵米取りの者が多かった。もっとも、田畑を給人地として与える割合の大きい藩では、家禄はさらに低く抑える例もあった。ここでいう給人地とは、地方知行制で云う給人地(=領地)を指すのではなく、家格に応じて支給される田畑のことである。

この制度を導入していた小藩では、家老などの上級層は家老であっても小身な者が多かったので、江戸時代後期に商品経済が浸透して物価高となると、その家臣(つまり陪臣)に農作業をさせて、中級層以下の藩士は自ら家族と共にこれに当たり、半ば農民化していた。

具体例として、恋川春町の名で戯作家として知られる小島藩(1万石)年寄本役の倉橋格の石高は、年寄本役就任で120石であり、同じく戯作家で久保田藩(20万5800石)の江戸留守居平沢常富(朋誠堂喜三二として著名)の120石とほぼ同じであった。

幕府旗本の場合は、3,000石以上の大身旗本、家禄が約400石ながら徳川将軍家の本家筋に当たる交代寄合であった松平太郎左衛門の家系など特別な場合を除き、家老は置かれないのが通例である。おおむね500石以上、3,000石未満の旗本の場合は、家臣の最高位の職名は用人であった。家老を設置した将軍家の旗本はおよそ250家(2%未満)であり、その家老は80石から、多くても100石強程度であった。
付家老

分家した家に本家より監視・監督する役割を担って配された家老を付家老と呼ぶ。付家老は、本藩(本家)と支藩(分家)の両方から家禄を受けている場合と、出仕先の支藩からのみ家禄を受けて、支藩に次第に取り込まれていった場合とがある。

将軍家から御三家に遣わされていた付家老は、幕府と藩の双方から家禄を受けていた。尾張藩成瀬氏や、紀伊藩水野氏及び安藤氏のように、城主となり官位、官職を受けていた付家老もいた。これらは、家老と言えど大名と同等の格式を与えられ、主家の参勤交代随伴時においても大名並みの格式と威光を放ったとされる。なお、水戸藩の中山家や尾張藩の成瀬家などの『五家』は大名への昇格、独立を画策して連携するようになる。

御三卿付きの家老は、御三卿が将軍家の家族という扱いであったため、江戸城留守居と並ぶ将軍家旗本の最高の役職とされたが、3,000石級以下の旗本で有能な者が任じられることも珍しくなかった。
家老格

江戸時代において諸藩では、「奉行格郡奉行」や「中老格用人」などのように、有能な人物に本職在勤のまま本職よりも格上の役職に準じる、もしくは同等な席次や格式などを許可した場合がある。

これと同様に、江戸時代において家老職は譜代重鎮の家臣による世襲、もしくは家老職を出せる家格の有力な譜代の家臣による交代制が通例であったが、譜代の家臣ではなく家老よりも格下の役職や家格の者でも、家中(かちゅう)で実力を認められて家老格・家老並・家老列といった、家老に準ずる地位に登用される者も登場した。

家老格からそのまま一代家老に昇進することが多いので混同されるが、厳密に言えば家老格はあくまで家老の格式を許されているだけで、家老就任者ではない。席次も通常は、家老本職者よりは低いことが多い(これは用人と用人格、物頭と物頭格などの関係でも言える)。家老格の者は藩によっては軍制上、家老組に編入される。幕府では「老中格側用人」がこれにあたる。家老格の者が一代家老にならずに隠居、もしくは死去した場合、その後継者は元来の家格に戻ることが多い。

これとは別に、一代家老を輩出した家は家老職を出せる家格(家老級の家柄)に昇格するが、世襲家老家に対して家老格と呼ぶ場合がある。この場合は先述の家老格と違い、その子孫が家老に就任しなくとも軍制上、家老組に属することが多い。加賀藩前田家のような大藩になると、家老職を出せる家格(家老級の家柄)は70家にも及んだ。ただし、基本的に家老職自体が罷免されたり病気などで辞任が許可されたりしない限り終身在職が原則のために、世襲家老とは違い、家老格の家柄が多い場合は家老職が生涯回って来ないことも多かった。ただし、この場合でも上級藩職に就任したことが多い。
一代家老

元来は家老を出せる家柄ではない家から家老に就任した者を一代家老(いちだいがろう)と呼ぶ藩が多い。学術上や近現代の著述では抜擢家老(ばってきがろう)と呼称されることもある。江戸時代も年代が経つにつれて一代家老が登用される例が増えてゆき、一代家老に対して家老連綿の家柄である門閥出身の家老を永代家老(えいだいがろう)と区別するのが一般的である。席次は永代家老の方が高い。「一代家老」の名のごとく、基本的に家老職に就けるのは本人のみで、その子息に家老職が保障されていないが、一代家老就任者の家は家老を出せる家柄に昇格することが多く、実質的に世襲している場合もあり、中には米沢藩莅戸善政莅戸政以のように、一代家老を数代輩出して永代家老家に昇格する場合もある。

有能な者が実力によって一代家老に登用された代表例として、古くは元禄期の赤穂浪士の討ち入りで有名になった赤穂藩大野知房や、寛政期の米沢藩の上杉治憲の改革のブレーンであった莅戸善政幕末に活躍した長岡藩河井継之助(郡奉行奉行格加判)、薩摩藩調所広郷長州藩村田清風などが挙げられる。

一方で、永代家老が処罰される場合は先祖の勲功が考慮されて、当主とその嫡子が処罰されても家格降格や取り潰しになることはあまりないが、一代家老が処罰される場合は当主が処罰されるに止まらず家格降格になることが多い。
家老制の弊害

2人から数人程度の家老が合議制で藩政にあたるわけであるが、政治改革や世継ぎ問題に絡んで派閥抗争が起きることが多かった。このような抗争が「お家騒動」の元凶となり、最悪の場合は改易にまで至ることがあった。

特に、藩政改革のために取り立てられて藩主の信認を背景として独裁的に改革を推進しようとする家老や年寄・奉行と、保守的な重臣、一族の意見を代表する門閥家老との対立は定番と言える光景で、藩論を二分して血で血を洗う抗争につながったり、改革派家老の失脚とともに藩主が隠居に追い込まれるなどの政争も見られた。

また、徳川家斉治世中(大御所時代)、御三家の付家老は自身らの独立のために将軍の子女を藩主や藩主正室にするように画策し、藩内対立や、将軍の子女を迎えることによる藩財政悪化を引き起こしている。また、幕府においては側用人が大老格や老中格になると、本職の大老や老中と同様の格式と加判の特権を持ちながら側用人の業務を行うので、老中に対抗できる権勢を有することになる。こういった人物として柳沢吉保田沼意次水野忠成が著名で、彼らは幕府権臣としても著名である。
家老の特権と義務

家老は、主君のための責任要員的な性格があったとの指摘もある。例えば、将軍同様に老中の通称と陪臣にあたる諸藩家臣の通称が被った場合、諸藩の家臣は通称変更を余儀なくされる場合もあった。また、家老が自分の屋敷とは別に下屋敷を有する場合もあり、基本的に防衛施設である城の近くに屋敷を構えていた。この他、通常の家臣には許可されない輿に乗る権利を許可されることも多い。

反面、主君の身代わりに藩政の実務最高責任者として責任を取ることもあった。最悪の場合は切腹斬首の上に家格降格や家名断絶を受ける形で、その責めを全うすることもあった。戊辰戦争に敗れた東北諸藩でも、家老が全責任を被って処罰を受けた代わりに藩主への処罰が軽くされるということが見られる。
徳川家における家老

徳川家ではこれに当たる役職を老中と呼んでいた。江戸幕府開府後も、幕閣最高位の役職としてこの名を踏襲した。また、臨時の役職として老中の上に大老が置かれた。ちなみに徳川氏がまだ三河国の一地方大名であった時代は、酒井家が家老(老中)連綿の家柄であった。また、石川数正が家康の信任を得てこの職に昇進した。
陪臣の叙爵

尾張家・紀伊家・水戸家の御三家、並びに加賀前田家の家老は、それぞれ決められた定数内で従五位下諸大夫へ叙爵された。

前任者が死没・隠居し、欠員が発生した後に、主家より幕府へ推挙され、叙爵した者は死没・隠居するまでその官位を保持していた。

通常の諸大夫成の場合、幕府より朝廷への年賀使として高家が上京する際に口宣頂戴奉書をまとめて持参し、その高家が口宣案をまとめて江戸へ持ち帰るが、四品以上に叙爵される場合同様、幕府の許可後、各主家で独自に使者を派遣し、叙爵の手続きをとっていた。
一覧

尾張家 - 6名:
御附家老竹腰氏成瀬氏を優遇し、常時の諸大夫を許される。その他渡辺氏石河氏などが叙任。

紀伊家 - 6名:御附家老安藤氏水野氏を優遇し、常時の諸大夫を許される。その他三浦氏岡野氏などが叙任。

水戸家 - 5名:御附家老中山氏を優遇し、常時の諸大夫を許される。その他鈴木氏・山野辺氏などが叙任。

前田家 - 4名:加賀八家より本多氏・前田土佐守家を優遇し、常時の諸大夫を許される。


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