家屋文鏡
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家屋文鏡は1881年明治14年)、松本勘三郎ら地元民が後円部を発掘した際、検出されたものである[15][20]。この発掘により、粘土槨と推定される埋葬施設からは、鏡36面・石製品・勾玉管玉・銅鏃・巴形銅器・石製模造品などが見つかった[20]。正式な発掘調査によるものではないため、正確性を期すことはできないものの[21]梅原末治による聞き取りによれば、当時の様子は以下の通りであった[22]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}後円部頂上より約四五尺にして幅二尺、深三尺内外の小石を以て積める楕円形の輪状の如きものあり、内部は粘土を以て埋もれたるが、之を見るに一部分に朱の附着せるものありしを以て、其の部を発掘せしに刀剣、槍先、甲冑等の腐食して互に附着せし塊状をなせるものを発見し、更に細部全部を掘り拡げしに長さ六尺、幅三尺内外、即ち略畳一枚の大きさに等しき木船あり、其の上部に鱗状をなして三六面の鏡の存ぜるを掘出し、船の前の土中より勾玉、管玉、石釧、香盒等無数の石製品を、後方両側より刀片其他を発見せしなりと云ふ。而して其の鏡は完全なりしは二〇面に足らざりしも、存在せる紐の数よりその三六面なるを知るを得たり。

このときの出土遺物は博物局宮内庁に折半して買い上げられた[20]。のちに、これらの出土品は宮内庁書陵部東京国立博物館奈良国立博物館の分有するところとなり、家屋文鏡については、宮内庁の所蔵となっている[15]。なお、奈良国立博物館所蔵の銅鏡4面は、「奈良県佐味田宝塚古墳出土品」として2001年(平成13年)6月22日に重要文化財に登録されている[15][23]
図像
建物図像.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}家屋文様A棟B棟C棟D棟

家屋文鏡の内区には4棟の建物が描かれる。本項では池浩三にならい、これらを入母屋屋根・伏屋形式の「A棟」、切妻屋根高床建築の「B棟」、入母屋屋根・高床建築の「C棟」、入母屋屋根・平屋の「D棟」と整理する[7]
A棟東大寺山古墳出土家形飾環頭大刀柄頭。A棟との類似性が指摘される。

A棟はいわゆる竪穴建物(竪穴住居[注釈 3])、あるいは万葉集にみられる「廬屋(ふせや)」「伏廬(ふせいほ)」「田廬(たぶせ)」を連想させる外見をしており[7]、多くの研究者が竪穴住居そのものであると断じている。一方で、太田博太郎は貴族の鏡に描かれた家屋様式をもって庶民の一般住居を復原しようとすることに慎重な姿勢を見せている[27]。低い土壇から立ち上がっており、建物の左側には棒で押し上げられた扉が描かれ[28]、その前に2本の短い柱に横木を渡した門のようなものがあり、長い柄の菅蓋がさしかけられている[7]。こうした蓋の存在は、A棟と貴人の関わりを示唆するものであり[29]、A棟が単なる住居建築ではなく、なんらかの特殊な用途をもっていたことをあらわしている[30]。太田茂比佐はこの建物にみえる蓋がC棟にみえるものの半分くらいの大きさであることから、A棟は非常に巨大な建物であるという説を唱えている。また、平井聖はこの説を援用しながら、A棟が集会場のような役割をもつ施設であったという説を提示している[29]。門のようなものについては、蓋を支えるための装置とも考えられるが、図文の祭祀的性格から、池浩三はこれが『貞観儀式』の施設にみられるような「神服柏棚」といったものである可能性を指摘している[31]。また、近藤喜博は、これが井戸ではないかとする説を提示している[30]

妻ころびの大きい上部の屋根の先端には千木のような交差した2本の線が描かれている[7]。土壇として表現されている部分については、都出比呂志により竪穴建物の屋根裾に土堤(周提)が張り巡らされたものであるという見解が示されており、のちに群馬県渋川市の中筋遺跡や黒井峯遺跡などでそのような遺構が検出されたことから[注釈 4]、そのようにみなしうることが明らかになっている[28]。また、東大寺山古墳出土環頭大刀の柄飾りにはA棟と類似する家屋があしらわれている[33]。池は、刀柄や鏡といった宝飾品の図案としてこのような建物がもちいられる理由として、A棟様の建物が大嘗祭施設の前身にあたるような、いわゆる「ムロ」のような施設であったという説を提示している[34]
B棟伝香川県出土・袈裟襷文銅鐸の家屋図案。B棟との類似性が指摘されている。

B棟は切妻屋根・桁行2間の高床建物であり[35]、おなじく千木を配した転びの大きな屋根を有する[28]。床下には山状、床上は平行の線刻が描かれており、両者は異なる材質であった可能性がある[35]。床上は網代であり[36]、床下は板壁と考えられている[28]。車崎正彦は、この網代壁について、纒向遺跡南飛塚地区の木組みとの関連性を指摘している[37]

B棟は高床倉庫であると比定されているが[35]、太田博太郎はこのような比定に留保の姿勢をみせている[38]。とはいえ関野克による登呂遺跡の研究などの影響もあり、この説についてはおおむね異論はない[37]。同様の建物は4世紀遺構の古墳から出土する埴輪や、伝香川県出土袈裟襷文銅鐸や唐古・鍵遺跡出土土器の図案などからも見出すことができる[35]。一方で、これらの図案においては棟持柱が描かれる一方、B棟にはそのようなものがみあたらない[39]。B棟の全体の印象については、しばしば出雲大社本殿や神魂神社本殿にみられるような、大社造の建築と比較される[37]

建物の左側には手すりのない梯子がかけられている[28]。階段の位置から、入り口は妻側にあることがわかる[40]


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