宮部みゆき
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就職後、小説を書く

1976年(昭和51年)、江東区立深川第四中学校を卒業。1979年(昭和54年)、東京都立墨田川高等学校を卒業[15]。高校卒業後は、OLとして2年間勤めている。このOL時代に裁判所速記官試験(現在は養成中止)に挑むも不合格となり、中根速記学校で速記を学び、速記検定1級を取得している。

1981年(昭和56年)・21歳の時から法律事務所に5年間勤務し、和文タイプライターのタイピストを担当した。事務所は新宿歌舞伎町にあり、顧問になっている店も風俗店が多かった。5回の破産企業の管財人就任の時以外は空き時間が多く、留守番時には速記のアルバイトも許されて、『判例時報』などを読んでいた[4]

10歳代からの海外ミステリに続き、当時日本のミステリも読むようになる。映画の影響もあり、自分も何かを書いてみたいという気持ちが湧くものの、うまくいかなかった。参考に買った本は、ヒッチコックトリュフォーの共著『映画術』であった。初歩習作『最初の依頼人』36枚を書く[16]

1983年(昭和58年)・23歳の時、発売されたワープロ(ワードプロセッサ)を、仕事に必要になると買った宮部は、勤務後に自宅で文字打ちの練習を始めたが、突然、長文を作り始めて止められなくなった。そのうち、自分が打っているのは「小説」だと気付いた。毎晩、睡眠時間を削って深夜まで打ち続け、腕まで痛くなってもやめない宮部は、親に叱られても聞かず、生涯初の小説を完成させてしまった。のちに宮部は『朝日新聞夕刊連載コラムの中で「ミヤベミユキという小説家はワープロ様抜きでは生まれなかった」と振り返っている[17]。なお、この小説は発表されていない。

1984年(昭和59年)、講談社フェーマススクール・エンタテイメント小説作法教室を雑誌広告で知った[4]宮部は、1年半、教室に通った[注 2]。高額授業料のため、期末まで残り半年は各回の打ち上げにのみ参加していたという。ここで、山村正夫南原幹雄多岐川恭の講師と石川喬司阿刀田高のゲスト講師に学んだ[18]。ただ、この頃はまだ、プロになれるなどとは思っていなかった[19]
作家へ

小説教室の仲間に勧められ、試しにオール讀物推理小説新人賞に応募し、3回目の1986年(昭和61年)候補になり[20]夏樹静子に励ましの評価を貰って、小説家への道が見え、意欲が初めて湧く。翌1987年(昭和62年)にオール讀物推理小説新人賞を受賞し[注 3]、短編「我らが隣人の犯罪」でデビューする。多岐川恭に「仕事を辞めないこと、次作が載らず、なかなか本が出なくても書き続ける、健康に注意」と助言される[22]。長編依頼をもらい、時間拘束のきつい法律事務所を辞め、自由のきく東京ガスの集金人を2年間務める[2]。2年半かけて[2]1989年(平成元年)2月に東京創元社鮎川哲也と十三の謎』の第5回配本『パーフェクト・ブルー』が初出版される。同年に専業作家となり、『魔術はささやく』を書き、1989年日本推理サスペンス大賞を受賞する[4]。『龍は眠る』(綾辻行人日本推理作家協会賞を同時受賞)などの超能力を扱った作品が多かったが、1992年(平成4年)に発表した『火車』は、クレジットカードローンによる多重債務問題を描き出し、山本周五郎賞を受賞した。

ミステリーではその後、『理由』で直木三十五賞、『模倣犯』で毎日出版文化賞特別賞、『名もなき毒』で吉川英治文学賞を受賞した。宮崎勤事件に触発されて書いた[23]『模倣犯』の後で現代の闇を描くことに疲れて、時代小説やファンタジーを重点に書く[24]

時代小説では、江戸に住む人々の人情を描き、吉川英治文学新人賞を受賞した『本所深川ふしぎ草紙』や、超能力ものの『霊験お初捕物控』、深川を舞台にしたミステリー『ぼんくら』『日暮らし』などがある。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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