1915年(大正4年)4月、盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に首席で入学し、寄宿舎「自啓寮」に入寮。16日の入学宣誓式では総代として誓文を朗読した[23]。翌年、特待生に選ばれ授業料を免除される[24][25]。高等農林では農学科第二部(のちに農芸化学科)に所属し、土壌学を専門とする部長の関豊太郎の指導を受ける[26]。関は狷介な人物として知られていたが、賢治とは良好な関係を築いたとされる[26]。この頃、毎朝法華経の読経をしていた。寮で同室になった1年後輩の保阪嘉内と親しくなる。保阪は農村改良を志向して進学しており、後の賢治の羅須地人協会の構想にも影響を与えたと言われる[27]。1917年(大正6年)7月、保阪、小菅健吉、河本義行(河本緑石)らと同人誌『アザリア』を発行し、賢治は短歌や短編を寄稿。1918年(大正7年)、卒業を控えた賢治に父の政次郎は研究生として農学校に残り、徴兵検査を延期することを勧めるが、賢治は得業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』[2]を提出し、検査延期を拒否。化学工業方面に進みたかった賢治は研究生の土性調査に意欲がなく、検査延期は自分の倫理観が許さなかった[28]。3月13日、保阪嘉内が『アザリア』に発表した作品が原因で除籍処分となる。賢治は教授会に抗議したが通らなかった[27]。15日に農学校を卒業、研究生として残り、稗貫郡の土性調査にあたる[29]。これは関からの推薦によるものであった[26]。賢治は誠心誠意この仕事に打ち込み、休ませてもらった家には法華経の印刷物を置いていった[30]。またこの頃から5年間、菜食生活をする[31]。4月28日、徴兵検査を受けて第二乙種合格となり、兵役免除[27]。6月30日、岩手病院で肋膜炎の診断を受けて山歩きを止められた。このため退学を申し出たが、土性調査は9月まで続け報告書を提出した[32]。7月4日、花巻に帰省する際、見送りにきた河本義行に「私の命もあと十五年はありません」と語ったという[33]。8月『蜘蛛となめくじと狸』『双子の星』を執筆、家族に朗読している[34]。
12月26日、東京に進学した妹のトシが東京帝国大学医学部附属病院小石川分院に入院したとの知らせが入り、母のイチと上京。病院の近くの旅館「雲台館」に泊まり、翌1919年(大正8年)3月3日まで(イチは1月15日まで)看病する[34]。トシは当初チフスの疑いだったが発熱が続き、肺炎と診断される[35]。翌年1月になると病状も落ち着き、賢治は図書館に通うなどして将来の仕事について考え始める。また国柱会館で田中智学の講演を聞き、盛中同級生の阿部孝(当時は東京帝国大学文学部在学、後に高知大学学長)から萩原朔太郎の『月に吠える』を借りる[36]。